ガンダム理論2 〜死の瞬間〜
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あなたはいつか死ぬ。
もちろん僕も。
でも、死んだらどうなるのかを知っている人はいない。
誰もがいつか必ず経験することなのに、その実態がよくわからない。
だから、人間にとって「死」というのは最大の恐怖の一つだ。
もしかすると、テレビやパソコンをオフにするときのように、プツンと電源が切れると同時に画面が真っ暗になって全てが終わる、と考える人も多いかもしれない。
あなたは「死」についてどう考えているだろうか?
人は死んだ瞬間にどんな状態になると思う?
僕は以前、人間の本質は肉体ではなく魂であるということを、「機動戦士ガンダム」を使って説明したことがある。
今回はこの「ガンダム理論」を使って、死の瞬間にどんな風景が広がるのか、僕の考えを書いてみたい。
ガンダムはアムロという少年が乗り込んで操縦する巨大なロボットなんだけど、僕は「ガンダム理論」で、人間と魂の関係をこんなふうに解説した。
- アムロ=「僕らの魂」
- ガンダム=「僕らの肉体」
つまり、僕ら人間はこの三次元世界を体験するために、その本質である「魂」が肉体に入り込んで生活している状態、というわけだ。
詳しくは以前書いた記事を読んでいただきたい。
ガンダム理論で考えると、人の「死」はどんなふうに説明できるだろうか?
先述したように、今ここで生きている僕たち人間は、その本質である魂が肉体に入り込んで身体を動かしている状態なわけだけれど、ガンダム理論で言うと「魂=アムロ」だから、魂である僕らは今、ガンダムに乗り込んでコックピットの中から「世界」を見ている状態っていうことだ。
で、ガンダムのコックピットがどうなっているかというと、こんな感じなんだよね。
狭くて、暗い。
ちょっとわかりにくいかな。
ちなみに、コックピットをゲーム上で再現した画像ががこれ。
やはり視界は狭くて、窮屈だよね。
こんなところにずっといたら、気分が悪くなりそう。
でもね、今この地球上で生きている僕らが、ガンダムのコックピットに乗ってるのと同じ状態だとしたらどうだろう。
三次元世界を体験するために、本来は無限の広がりを持つ「魂」をぎゅーっと圧縮して、この肉体に宿してるとしたら。
もしそうであるなら、僕らが死ぬとき、つまりコックピットを離れてガンダムの外に抜け出すときに、僕らは本来の状態に戻るわけだから、視界は急に開ける。
今までは小さなモニターで「世界」の一部しか見えていなかったのが、ガンダムの外に出た瞬間、目の前に360°の大パノラマが広がるわけだ。
ちょっと違うけど、わかりやすく言うと、、、
これが、
こうなる感じかな?(笑)
死の瞬間に起きるのは、こういうことなんだろうと僕は思う。
今僕たちを拘束している時間や空間、エゴや五覚などの制約から解放されて、宇宙本来の姿が一気に目の前に広がる。
そして、たぶんわかるはずだ。
ああ。なーんだ、世界はこんなふうになってたのか。
今まで生きてきた地球上での人生っていうのは、そういう意味を持ってたのか。って。
スティーブ・ジョブズの最期の言葉も「オー! ワオ!」だったしね。
そう考えると、「死」を迎えたときに何が見えるのか、ちょっと楽しみだよね。(笑)
長い間閉じ込められていた狭いコックピットから離れたときの解放感。
気持ちいいんだろうなぁ。
それでは今日はこの辺で。
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罪悪感は要りません。
以前書いたことがあるけど、僕は何年も前から「ほぼ1日1食生活」をしてて、基本的に夕食しか食べない。
そう言うと、「凄いね~」とか「お腹すかないの?」とか言われることも多いけど、これだけ長く続けていると1日1食でもお腹がすくことはないし、なんなら2~3日全く食べなくても平気なんだよね。
まあ、そんなふうに言うとカッコいいけど、実は数カ月に1回くらいの頻度で突然、無性に何かを食べたくなることがある。(笑)
で、今日がその日だったみたいで。
昼前から猛烈に豚骨ラーメンが食べたくなった。
こういうとき、欲望を抑えて我慢する人も多いと思うけど、僕は今日も躊躇なく、お気に入りのラーメン屋さんに直行した。
我慢するストレスのほうが身体に悪いと思ってるからね。(笑)
いったん食べると決めたら、「1日1食のルールを破っちゃった…」とか「豚骨ラーメンは身体に悪いよな…」なんていう思考は頭から追い払います。
んで、ラーメンをとことん楽しむのです。
なんて旨そうなラーメンだ!
わぁ、めちゃくちゃ美味しいやん!
濃厚なスープが細麺にほどよく絡んで、これはたまらん!
いやぁ、こんなに美味しいラーメンを手軽に食べられるなんて幸せすぎる!
最高だわ…。
感謝の気持ちしかないわ…。
しかも、これだけニンニク効いてたら免疫力が上がりそう~!
ラーメンを食べながら、ずっとそんなことを考えてるんだよね。
これだけポジティブなことを考えながら食べてたら、もし仮に豚骨ラーメンが毒だったとしても、プラセボ効果によってすべては身体に良いものに変換されてしまうのです。(笑)
ということで、もちろん替玉もしましたよ。
ちなみに、ラーメンの麺はノンカロリーなんです。
音を立ててすすると、空気中にカロリーが飛散しますからね。
ついでに言うと、豚骨ラーメンのスープもノンカロリーなんです。
スープは長時間煮込んでいるうちにカロリーが飛んでゼロになっちゃうわけです。
ということで、スープもありがたく飲み干しました。(笑)
罪悪感なんて不要です。
お酒だろうが、タバコだろうが、ポテチだろうが、真夜中のアイスクリームだろうが、何でもそう。
いったん覚悟を決めたら罪悪感は捨て去って、あとはとにかく感謝して、幸福感を味わい、楽しみ尽くす。
これをやるのとやらないのでは、人生が大きく変わってくると思うよ。
たぶん。(笑)
あ…。そういえば以前に同じような記事を書いてたわ…。
それでは今日はこの辺で。
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「好き」を語ろう。
昨日はちょっと小難しい記事を書いてしまったので(笑)、今日は軽めの話題で…。
僕には、Jという親友がいる。
彼とは小学校のときからの長い付き合いで、今でも1~2カ月に1回は飲みに行っているし、同じような業界で働いているので、仕事上で会うこともある。
そんな彼には6~7歳離れた兄がいて、Jは子どものころから兄貴の影響を受けることが多かった。
特に音楽に関しては完全に兄貴の趣味に染まっていた。
で、Jと仲良しの僕も、間接的にそのお兄さんの影響を受けることになり、小学校のころからオールディーズやビートルズなんかを聞いている変なガキだった。
中学に入ってからも、同級生が最新の邦楽の話題で盛り上がっているのを横目に、2人で浜田省吾やベイシティ・ローラーズについて語ってるという状態。(笑)
だから、10代のころに一番よく聴いてたのは浜田省吾なんだよね。
僕が内向的で、年寄り臭くて、でも熱いところがあるのは、ハマショーのせいなんじゃないか?ってちょっと思ってる。(笑)
まあ、それはどうでもいいんだけど。(笑)
そんなこんなで僕は10代のころ、浜田省吾の曲が好きだった。
失恋ばかりしてた僕には、彼の失恋ソングやバラードがいつも心に染みてた。(笑)
でも、浜田省吾はどちらかというと暗めの曲が多いから、大学に入ったころくらいからはあまり聴かなくなって、かわりに、邦楽だとミスター・チルドレンやサザンオールスターズ、スピッツなんかをよく聴いていた。
特にミスター・チルドレンが大好きで、CDアルバムが出るたびに必ず購入していて、30歳を超えてからもミスチルの曲はずっと聴いてたんだよね。
で、もう10年以上も前のことになるけれど、たまたまYouTubeで桜井さん(ミスチルのボーカル)の動画が目に留まったので見てたら、なんと浜田省吾と協演してたのよ!
これは「ap bank fes」というイベントで、桜井さんと小林武史がメインでやってた活動なんだけど、いろんなアーティストをゲストとして呼んでやっていたライブなんだよね。
で、そのゲストの一人として浜田省吾が出演してたというわけ。
これがその動画で、浜田省吾の名曲「家路」を二人で熱唱している。
浜田省吾ファンである僕から言わせると、「おい桜井くん、ちょっとアレンジし過ぎやぞ…」って言いたくなるんだけど、まあ桜井さんファンでもある僕は許します。(笑)
で、前置きが長くなってしまったけど、今日の本題はここからです。(笑)
この浜田省吾との協演の直後に、桜井さんは一人でミスチル自身の曲「HERO」を歌ってて、この動画、ぜひ最後まで見てほしい。
最後まで見た?
ホントにちゃんと見た?(笑)
桜井さんは「HERO」を歌ってる途中で、感極まって歌えなくなってしまう。
僕も最初この動画を見たときは、え? どうしたの? 何があった? って思ったんだけど、実はこれには深いワケがあるんです。
僕は当時全く知らなかったんだけど、実は桜井さんは浜田省吾の大ファンで、ずっと憧れの存在だったらしい。
それが、「ap bank fes」という場で初めて協演できたというわけ。
つまり、桜井さんにとってずっとヒーローだった人、“小さいころに身振り手振りを真似てみせた憧れ” の浜田省吾と協演するという長年の夢が叶ったわけなんだよね。
で、その直後に歌った「HERO」で、感涙のあまり歌えなくなってしまった。と。
いやぁ、浜田省吾のファンでありミスチルのファンでもある僕にとって、これは最高のエピソード、最高の動画なんですよ。
だからナニ? って言いたくなるかもしれないけど、実はこの話は前々回の記事とつながるところがあってね。
この記事で僕は、人とのつながりを深めるためには「共感」が大切なんじゃないか? っていうことを書いた。
で、桜井さんの涙の話で考えると、僕と桜井さんには何のつながりもないんだけれど、浜田省吾に対する憧れや尊敬という意味で、僕は桜井さんに「共感」するんだよね。
そうすると、今まで以上に、桜井さんとの「つながり」が深まったように感じる。
もちろん、僕から桜井さんへの一方的な「つながり」なんだけど。(笑)
でも、同じ対象(この場合は浜田省吾)を好きになる者同士というのは、同じような価値観を持っているはずだから、この人も僕と同じなんだ!という気持ちが生まれると、もうそこに「孤独」はない。
これは昨日書いた「悪魔祓い」の儀式の中で“患者”と村人が一緒に「お笑い」を見ることで悪魔を祓う(孤独から解放する)という構造とも同じだ。
「好き」なもの(価値観)を共有することで人と人はつながれる。
前々回の記事では「孤独を癒すためには本音を語ろう」ということを書いたけど、話したくもない深い本音を無理に語る必要はない。
ただ自分が大好きなことをアウトプットし続けていれば、同じようにそれを愛好する人が見つかる。
そうすれば、いつの間にか「孤独感」は消えてるはずだと思う。
そういえば、以前こんな記事も書いてた。
まずは「好き」を語ろう。
遠慮なんかいらない。
「孤独」云々はそれからだ。
それでは今日はこの辺で。
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悪魔祓いが必要かもしれない。
前回こんな記事を書いたけど。
これを書いた後で「悪魔祓い」について思い出したので、今回はそれについて書いてみたい。
はい、そこのあなた。
「おいおい、悪魔祓いって。。。コイツまたわけわからんこと言い出したぞ。」って思ったよね。(笑)
僕は本が大好きなので我が家の書棚にはたくさんの書籍が眠っているんだけど、その中でも異彩を放つ一冊がある。
危ないクスリをやってハイになった人が描いたんじゃないか?と思いたくなる表紙とタイトル、そしてこの、ゆる~い出版社名!(笑)
まあ、見た目はかなりクレイジーな印象だけど、この著者の上田紀行さんという人は、れっきとした文化人類学者(東工大教授)だ。
そして、この本の冒頭に、件の「悪魔祓い」のエピソードが出てくる。
これは文化人類学者である上田氏が、スリランカの農村でフィールドワークをしたときのエピソード。
かなり長くなるけど、とても面白いので引用するね。
どこがおかしいのか分からないけれど、何かが絶対おかしい、そんな時代に生きています。
裕福になったといいながら、いつもどこか満たされず、元気元気といいながら、顔色は決して冴えず、平和といいながら、核の恐怖におびえ、人権が脅かされ、飢えと貧困のために死ぬ人の数はしれず、自然は大切だと言うそばから自然がどんどん破壊されていく。
何事も思うようにならないものだ、と諦めてしまえばそれまでですが、しかしいま諦めてしまうと近いうちに何か恐ろしいことが起きることを誰もが薄々感じてきています。
私たちの直面している問題とはいったい何なのか、そしてその原因は何なのだろう、そんな誰もが知りたい、けれどなかなか実際は問われることのない問いにこれから勇気を出して取り組んでみたいと思います。
その出発点としてぼく自身の体験から少しお話してみようと思います。
それは「悪魔祓い」についてです。
「えーっ? 何で世界の危機と悪魔祓いが関係あるの」とびっくりされるかもしれません。
けれどどうかお聞きください。
現在の世界の危機はそのくらいの奇襲作戦でもなければなかなかアタックの糸口がつかめないものなのです。
それはぼくが二年半程いたスリランカでの話です。
病人に対して悪魔祓いをするという伝統は都市ではもうとっくの昔に無くなっていて、都会の人は「あんな迷信のことを調べてどうするの?」と冷ややかですが、南部の農村ではいまも悪魔祓いは行なわれています。
その患者はというと、それが私たちもおなじみの病気の数々です。
無気力になって仕事に行けなくなったお父さん、登校拒否の少年、体がだるいけど病院に行っても治らない、原因不明で顔色が悪くなってきたと思ったら本当に病気で寝込んでしまった、等々。
これは悪魔の仕業ではないかと疑われると家族は悪魔を祓う呪術師、シャーマンを呼んで来て診断の上、悪魔祓いを行なうのです。
その悪魔祓いの儀式は、おどろおどろしいものと思いきや、実はものすごい活気に溢れた一大パフォーマンスです。
患者の家の庭で行なわれる徹夜の悪魔祓いには親戚や近所の人が百人以上もつめかけて見守ります。
激しい太鼓のリズムに乗って、カラフルな衣装をまとったシャーマンは歌い踊り、悪魔を呼びます。
患者によっては悪魔が乗り移り、シャーマンはその悪魔と対話をして、患者から去ることを約束させます。
そして面白いのは朝方のお笑い漫才大会。滑稽な仮面をかぶって出てきた悪魔が太鼓叩きとの間で駄洒落あり、下ネタあり、流行歌の替え歌ありのギャグの連発。
思わず患者も笑いだし、周りの家族と村人と一緒に腹の底から笑いあっているうちに夜が明け、何と不思議なことに昨夜まで元気の無かった患者には元気が満ち溢れてきて、体の不調も治って行くのです。
この悪魔祓いは不思議に見えて、実はしっかりとした論理が隠されています。
まずどんな人が悪魔憑きになるかというと、村人もシャーマンも「孤独な人」と言います。
悪魔が来ることを「悪魔の眼差しが来る」というのですが、孤独な人が悪魔に眼差されてしまうのです。
つまり、ひとはお互いに眼差し眼差されあっている温かい輪の中にいれば悪魔は来ないけれど、その輪から外れてしまうと悪魔が来てしまうのです。
だからその人を癒すにはもう一回私たちの輪の中に迎え入れなければならない、それが悪魔祓いなのです。
この考え方は、私たちの対処の仕方とかなり違っています。
私たちの社会の中で同じことが起きると、私たちは患者に「病人」というレッテルを貼ります。
そして患者と周りとのつながりの中に原因があるというよりも、患者自身の中に何か原因があると考えて、私たちはその患者をもっと孤独で白く冷たい空間へと送り込んでいくのです。
そこにはふたつの対照的な考え方があります。
一方では「いのち」はつながりの中にあります。他の命とつながっているときには元気でつながりが失われると生命力が弱まってくる、そんな考え方です。
もう一方では「いのち」はあくまでも個々別々のものです。私のいのちは私のいのち、あなたのいのちはあなたのいのち、他のいのちがどうであろうと私のいのちには関係がありません。
そして問題はそのどちらが「合理的」でどちらが「迷信」なのかということなのです。
シャーマンの先生が言ったことで、もうひとつははっとさせられた言葉がありました。
「どんな病人も本人のこころがわくわくしなければ絶対治らないよ」
確かにこころが癒され、体が癒されるときはいちばん嬉しいときに違いありません。
でもそれなら、なぜ私たちは日本でルンルン気分で病院に行かないのだろう。
そして、日本は豊かになったとか言うけれど、どうも「わくわくしてる」日本人ってあんまり見たことないなあとその時思ったのでした。
(上田紀行『覚醒のネットワーク』p10-13)
この本の初版が書かれたのは1989年なので、「鬱(うつ)」というような病名は出てこないけれど、ここで取り上げられているスリランカの話は、今でも十分通じる内容だと思う。
このスリランカの話では、何らかの理由で心を病んでしまうのは「孤独」によって悪魔に目をつけられたからだけど、そもそもの原因は「いのち」の切り離しにあると解釈する。
だから、当時のスリランカでは「悪魔祓い」によって、当人と周囲の人とのつながり(いのちのつながり)を再構築することで「孤独」を解消しようとしてたわけだ。
僕が面白いと思ったのは、この場合の「病」は、病気を患った本人自身ではなくて「本人と社会との関係性」に原因があるとみなしている点。
これは、著者の上田氏が言っているとおり、今の僕らの社会とは真逆の発想だけど、薬漬けにして社会から切り離そうとする現代医学よりも、「つながり」を再構築しようとするスリランカの悪魔祓いのほうが僕には納得感がある。
ところで、そもそもの話なんだけど、僕は「孤独」と「孤立」は違うと思ってる。
で、僕自身に関して言えば、「孤独」は平気だけど「孤立」は怖い。
どちらも同じような言葉だけど、Wikipediaで調べてみると、こんな感じ。
孤独
他の人々との接触・関係・連絡がない状態を一般に指す。
孤立
他者と何らかの群を形成せずに、単独の状態にあって他者とのつながりや助けのない状態にあること。
「孤独」は、一時的に他者との接触がないという感じなんだけど、「孤立」の場合は他者とのつながりがないだけじゃなくて助けも得られない状態、と。
これは僕の勝手な解釈だけど、「孤独」は自ら選ぶこともできるけど、「孤立」は自分の意思とは関係なく一方的にそういう環境に置かれること、かな?
だから、僕は「孤独」より「孤立」のほうが怖いんだよね。
つい最近もあったけど、毎年のように日本のどこかで無差別的な通り魔事件が起きていて、犯人の言動を見ると、社会の中で「孤立」しているという点が共通しているように感じる。
彼らは社会から切り離され、「孤立」して、そして悪魔に取り憑かれた結果、暴挙に出るんじゃないだろうか。
そういう意味で僕は、悪魔というのは、「孤独」な人ではなく「孤立」した人に取り憑くんじゃないかと思ってる。
上田氏の解釈を流用させてもらうと、問題は「孤立」した本人というよりも、「孤立」を生む社会のシステムにある。
だから、そのシステム自体を改修しなければ、「悪魔に取り憑かれる人々」を減らすことはできない。
ただ、この社会システムをひっくり返すのは容易ではないだろうから、せめて「孤立」した人と社会との関係を結び直すための「悪魔祓い」をしていかなきゃいけないんだろうと思う。
なんてことを言うとわけがわからなくなっちゃうけど、要は、もし僕らの周囲に「孤立」して苦しんでる人がいたら、その人を特別視して切り捨てるのではなくて、寄り添ってあげることが大切なんじゃないかな?っていうことだ。
・・・やべぇ、ここまで書いてきたけど、落としどころがわかんなくなってきたぞ。(笑)
・・・ということで、今回はちょっと難しい話になってしまったけど、『覚醒のネットワーク』はとても面白い本なので、機会があったらぜひ読んでみてね!
いやいや、締めが強引すぎるだろ…。(笑)
無茶言うなよ…。
どうも僕が悪魔に取りつかれたみたいなので、今日はこの辺で!(笑)
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「孤独」が嫌なら本音を語ろう。
昨年からのコロナ騒動で人と会う機会が減り、孤独感を募らせる人が増えているらしい。
一人暮らしの人や、大勢でワイワイやるのが好きだった人は、人と会う機会が減ったことで寂しさを感じているのかもしれない。
ちなみに僕は、結婚してからは家族と一緒に暮らしているし、そもそもが内向的な性格だから、孤独を感じて悩むことはない。
というより、子どもが3人もいるから、「もっと一人の時間が欲しい」と思うことのほうが多いかもしれない。(笑)
僕はもともと一人でいるのが好きなので、20代の頃に一人暮らしをしていた時は、仕事している時間と、彼女と一緒に過ごす時を除けば、ほとんど一人で行動していた。
飲みに行くのも、映画を見るのも、散歩するのも、旅行に行くのも、もちろん読書するのも。
友人と飲みに行ったり、一緒に旅行したりすることはあったけど、大勢でワイワイやるのは昔から得意じゃない。
僕にとっては、親しくもない人たちと一緒に食事したり飲んだりするなんて、ほとんど拷問みたいものだ。(笑)
性格的に、人と一緒にいると過剰に気を遣ってしまうから、一人でいるほうが気楽なんだろうな。
それに当時は、「どうせ他人には僕の気持ちなんてわからないし、僕も他人の気持ちをわかってあげられない」と思ってた。(いや、今でもちょっと思ってる。)
もしかしたら、人間はそもそも孤独な生き物なんだという、諦めのような、開き直りのようなものがあったのかもしれない。
と、まあ、僕自身は「孤独」が嫌いじゃないんだけど、今「孤独」を感じて苦しんでる人の気持ちもわかる。
かくいう僕だって、人類が全滅して僕一人だけが生き残ったり、ロビンソン・クルーソーみたいに孤島に取り残されてしまったら、あまりの孤独感と寂しさで気が狂ってしまうだろう。
社会的動物である僕ら人間にとって、孤立や寂しさというのは、恐怖に直結するものだと思う。
だけど一方で、「孤独感」というのは、大勢の人と一緒にいれば癒されるというものでもない。
何百人も参加しているような立食パーティーで、知ってる人が誰もいなくて、誰も話しかけてくれないなんていう状態だと、逆に「孤独感」は深まるだろう。
地方で暮らしていたときよりも、東京に出てからのほうが「孤独感」を感じるという人も少なくないはずだ。
僕ら人間は、人と一緒にいさえすれば「孤独感」から解放されるというわけじゃない。
心の通わない人たちとどれだけ一緒にいても「孤独感」は癒されない。
じゃあ、どうすればいいんだろうか。
「孤独」を癒すために必要なことは何だろうか。
スピリチュアル的にはワンネスとかいろいろあるんだけれど(笑)そういうのを抜きにして考えると、「共感」というのが一つポイントになるんじゃないかと僕は思う。
自分の考えや価値観に共感してくれる人がいたり、逆に、自分が共感できる人がいれば、「ああ、私と同じような人がいるんだ」「私は独りじゃないんだ」って感じられるから。
仮にリアルな場で会えなかったとしても、心から共感し合える人が一人でもいれば、「孤独感」に苛まれることはないだろう。
そういう意味で、このコロナ騒動で「孤独感」を深めている人の多くは、それまで物理的に人と一緒に過ごす機会を多く持つことで「孤独」から逃れていた人なのかもしれない。
大勢でワイワイやることで一時的に「孤独感」から逃れられたとしても、宴が終わって独りになると寂しくなるからまた大勢のいる場所に行く、ということを繰り返していた人は、確かに辛いだろう。
そういう浅く広い付き合いによって「孤独感」を紛らわせてきた人は、これをきっかけに、互いに共感し合えるような、もう少し深い人間関係を結んでみるのがいいかもしれない。
そして、共感し合えるような関係になるためには、表面的に取り繕った、当たり障りのない話をするのではなくて、勇気を出して自分の本音を出すことが必要なんじゃないかと思う。
ちなみに僕は、このブログで相当尖ったスピリチュアルなことをたくさん書いてる。
宇宙人とか、神とか、パラレルワールドとか、ハイヤーセルフとか、波動とかとか。(笑)
Facebookでも、鬱陶しいくらいに濃い内容を書いてる。(笑)
だから、「こいつかなりヤバいな…」と思って、そっと離れていく人も多いに違いない。(笑)
でも、こんな僕のブログやSNSの記事をいつも読んでくれる人もいる。
コメントや「いいね」をくださる方もたくさんいる。
それはきっと、僕の考え方や価値観に何らか共感してくれているからだと思う。
そして、そんなふうに共感してくれる人がいるということを知った僕も、その人との共通点や繋がりを感じて嬉しくなる。
繋がりを感じられれば、孤独を感じることはなくなる。
だけど、もし僕の記事が当たり障りのない表面的な内容だったらどうだろう?
そこに深い共感や繋がりを感じられるだろうか?
僕はそうは思わない。
表面的なことではない、自分の中の深いところにあるものが共鳴するからこそ、深い共感が生まれ、強い繋がりが生まれるんだと思う。
そして、結果的にそれが「孤独感」を癒してくれるんだろうと思う。
だから、今「孤独」を感じている人は、まずは自分の本音をアウトプットしてみるといい。
ブログでもTwitterでもInstagramでもYouTubeでも、今は匿名で自分の価値観をアウトプットできるツールがたくさんあるから。
そして、それに慣れてきた段階で、もし可能であればリアルな知人や友人にも本音で語ってみよう。
もしかしたらそれによって離れていく人もいるかもしれないけれど、それは仕方ないことだ。
その代わりに、今まで以上に深い関係を結べる人もきっと出てくる。
「本音を語ったら嫌われて、逆に孤独になっちゃうんじゃないか?」 と思ってる人もいるかもしれないけど、実際はそうじゃない。
まずは、本音を語ること。
そうすれば、「孤独感」なんてそのうち消えてる。
それでは今日はこの辺で。
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オリンピックで見た、最高の試合。
僕は先日、こんな記事を書いた。
オリンピックに出場している選手たちが全然楽しそうにプレイしていない、ということについて書いた記事だった。
僕はスポーツが好きだけど、今の時代のスポーツは結果にこだわりすぎていて、本質から大きく外れてしまってると思う。
オリンピックはその最たるもので、だからテレビ観戦していても心地よくない。
「国家の威信」を背負ってまで、大きな重圧を背負ってまでやる必要があるんだろうか?
僕は、スポーツの本質は、プレイしている本人が楽しむことにあると思ってる。
大谷選手のMLBでの活躍を見ていて楽しいのは、本人が心底楽しんでいるのが伝わってくるからだ。
それに比べると、オリンピックに出場している選手たちはメダルを取ることにこだわり過ぎていて、楽しむことを完全に置き去りにしてしまってると思う。
そして、それが行き過ぎて、なんと決勝戦に進出したのに棄権してしまう選手までいる。
こうなるともう、本末転倒としか言いようがない。
この記事の中で、カナダのジョージア・エレンウッド選手はこんなふうに語ってる。
アスリートとして、私たちはしばしば物事を乗り越えろと言われますが、自分自身を置き去りにしてしまいます。
私たちは、心が最大の資産であることを忘れてしまいます…
そして、オリンピックのプレッシャーは内面にダメージを与えます。
彼女たちは、世界の重荷を背負っていても、心の健康よりも優先するものは何もないことを示しています。
まずはあなた自身を大切にしてください。
本当にそうだと思う。
メダルや勝敗にこだわり過ぎたり、国家の威信や周囲の期待を背負ってプレイするのは、「他人軸」で生きるのと同じことだ。
他人軸で生き続けていれば、自分を見失ってしまうのは当然のことだと思う。
だから、選手たちには、なぜ自分がそのスポーツを始めたのか?という原点に立ち返って、楽しんでもらいたい。
それで僕は、先日、あんな記事を書いたわけなんだよね。
ところで、昨日の夜たまたまテレビをつけたら、バドミントンの女子ダブルスの試合があっていて、福島選手と廣田選手の日本人ペアが、中国チームと準々決勝の対戦をしていた。
僕は特にバドミントンが好きなわけでもないので、何気なく見始めたんだけど、すぐに画面の中に引き込まれてしまった。
それは、福島選手と廣田選手の雰囲気が、これまで見てきたオリンピックの試合とは全く違っていたから。
日本の2人は、第1ゲームを先取したものの、第2ゲームは中国に取られ、最終の第3ゲームも中国チームが大きくリードしたまま試合が進んでいた。
にもかかわらず、福島・廣田ペアは実に爽やかな表情で、笑顔を見せながら試合を続けていた。
第3ゲームの最終盤で絶体絶命の場面になっても2人のペースは変わらず、相変わらず楽しそうにプレイしている姿は、これまでオリンピックで見たどんな試合とも違っていて、僕は衝撃を受けた。
結局、福島・廣田ペアは中国に負けた。
試合後に、対戦相手の中国選手から声を掛けられたのをきっかけに2人の目から涙がこぼれていたけれど、その表情にネガティブなものは感じなかった。
実に清々しい、素晴らしい試合だった。
だけど、僕は不思議だった。
どうしてこの2人は、オリンピックの大舞台を楽しむことができたんだろう?って。
他の選手たちは物凄いプレッシャーと戦いながら必死にメンタルを維持している状態なのに、なぜ2人はこんなに爽やかに、楽しそうにプレイできたんだろう?って。
その答えは、試合後のインタビューでわかった。
実は、廣田選手はオリンピック直前の先月18日、練習中に右膝前十字じん帯断裂(全治6カ月)という大怪我をしていて、とても試合に出られるような状態ではなかったらしい。
コートに立っていること自体が奇跡のような状態だったらしく、敗戦後のインタビューでは、こんなふうに語っていた。
──最後はどんな思い
福島選手「(廣田選手はケガした膝が)痛かったと思うが、本当に頑張ってくれたので、自分も最後までしっかりやることができた。2人で楽しくやれたかなと思います」
──廣田選手は振り返っていかがですか
廣田選手「たくさんの人に支えられてこの舞台に立てたので感謝。2人で思い切ってできたことが本当に幸せでした。福島先輩には本当に感謝しています」
(引用:日テレNEWS24)
おそらく、先月廣田選手が大怪我をした時点で、2人はオリンピックへの参加をいったんは諦めたんだろうと思う。
だから、廣田選手は7月25日の予選の試合後に「コートに立てるのが本当に奇跡のようなことなので、ここに立てて幸せだなと感じています」と話している。
オリンピックの舞台に立てて、ここで2人でプレイしているということ自体が奇跡。だから、この試合を、この時間を楽しもう。
そんな思いで2人はプレイしていたんだろう。
その気持ちが、試合中の2人のあの清々しい笑顔にあらわれていたんだろうと思う。
2人にとってはメダルや勝敗なんて、二の次だったに違いない。
今この瞬間、2人でプレイできることに感謝して、その喜びを味わい、ベストを尽くして試合を楽しむ。
それがすべてだったんだろう。
ほかのあらゆる競技のすべての選手たちが、この2人と同じようにプレイできたらいいのに。
オリンピックをはじめとするスポーツ大会が、結果を求めすぎるのではなく、プレイすること自体を楽しむ場になったらいいのに。
改めてそんなことを強く感じさせてくれる試合だった。
福島選手、廣田選手、本当に素晴らしい試合を見せてくれて、どうもありがとう!
それでは今日はこの辺で。
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トイレスマホをやめるべき、たった1つの理由。
今日はちょっと、それっぽいタイトルにしてみた。
なんか多いよね、こういうタイトルの記事。(笑)
まあ、それはいいとして。
今回は、トイレでスマホを触るのをやめたほうがいい理由について書いてみたい。
ただ、あらかじめお断りしておきますが、皆さんが想像しているような結論ではないことを保証します。
世の中に絶対はないと言いますが、この結論を想像できる人は多分いないと思います。(笑)
さて。
スマートフォンは今ではすっかり僕らの生活に溶け込んでしまって、あって当然のもの、ないとめちゃくちゃ困るものになってるよね。
だけど、日本でiPhoneの発売が開始されたのは2008年。
国内でスマホの普及率が50%になったのは2012年頃なんだよね。
だから、日本国内で半数以上の人がスマホを持つようになってから、実はまだ10年も経っていない。
でも、今やスマートフォンには本当にいろんな機能がついているから、電話(Phone)というのは名ばかりで、実際にはパソコンであり、カメラであり、音楽プレイヤーであり、ゲーム機であり、ヘルスメーターであり、地図帳であり、財布であり、書籍であり、新聞であり、テレビであり、切符であり、身分証明書でもある。
僕らの生活に必要な、様々なものがスマホの中に入っている。
だから、僕らはいつもスマホを身に着けている。
そして当然のように、トイレに行くときにもスマホを持っていく。
もちろん、トイレの中でスマホを触ったりしない!という人もいると思うけど、日本人の40~50%がトイレでスマホを触っているという調査結果もあるので、多くの人がトイレでスマホを触っていることは間違いないと思う。
だけど、僕は思うんだよね。
トイレで用を足しながらスマホを触るのは、やめたほうがいい。
その理由は、衛生的にどうだからということじゃない。
コロナウイルスがどうこうということでは全くない。(笑)
じゃあ、なぜなのか?
それは、用を足すときは用を足すことに意識を集中したほうがいいから。
僕ら現代人は情報の洪水の中で暮らしていて、生物としてのこの肉体に備わった感覚を使う機会がどんどん減ってきてる。
特に都市部に住んでいる人は、視覚情報や聴覚情報ばかりが過度に刺激されて、味覚、触覚、嗅覚を意識的に使う機会が減っていると思うんだよね。
マインドフルネスやヨガ、瞑想なんかの流行が続いてるのは、五感をおろそかにしている現代人へのアンチテーゼという側面も大きいと思う。
で、瞑想というと「心を無にする」というイメージが強いと思うけど、実はそうじゃないんだよね。
瞑想で一番大切なのは「思考」を止めること。
ただ、僕らは無意識のうちに1日5~6万回の思考をしてると言われていて、普段の生活の中で「思考」を止めるのはめちゃくちゃ難しい。
だから、最近はやりの瞑想やヨガ、マインドフルネスでは、何か1点に感覚を集中することで、間接的に「思考」を止めようとしてるの。
で。ちょっと話がズレちゃったけど、トイレで用を足しているときというのは、手軽に「瞑想」するためのいい機会なんだよね。
ちなみに僕は、これを尿道瞑想と呼んでます。(笑)
トイレでおしっこするときには、何も考えずに、とにかくおしっこが尿道を通る感覚に意識を集中するの。
おしっこが尿道を通ってるときって、ある種の快感があるでしょ?
その感覚を思い切り味わって、快感に浸るの。
そうすると、その瞬間は「思考」が止まってる、つまり瞑想状態に入ってるというわけ。
瞑想なんていうと、静かな場所で座禅を組んで、姿勢を正して、呼吸を整えて、、、なんて想像しがちだけど、そんなことをする必要は全くない。
やる気さえあれば、トイレで用を足すときにだって簡単にできるんだよ。
だから、今日からはもう、トイレにスマホを持ち込むのはやめよう。
トイレに入ったら、静かに目を閉じて、尿道に意識を集中して、おしっこが流れ出す快感をひたすら味わおう。
騙されたと思って一度やってみてほしい。
こんなに気持ちよくなれるチャンスを、今までいかに無駄にしてきたかわかると思うよ。(笑)
さあ、これで今日からあなたも世界尿道瞑想協会の一員です。w
それでは今日はこの辺で。
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人は「聖火」であり「川」である。
今回の東京オリンピックは、聖火リレーについていろいろ話題になってたよね。
開会式では、大坂なおみ選手が聖火台に火を灯したこともニュースになってた。
聖火はオリンピックのシンボル的な位置づけになってるけど、僕はあれを見るたびに思うことがある。
それは、聖火といっても、ただ単に燃料が燃えてるだけで、アテネの炎と今東京で燃えてる炎は全くの別物だってこと。(笑)
こんなことを言っちゃうと身も蓋もないんだけど、広島平和記念公園の「平和の灯」とか、空海さんの「消えずの火」なんかもすべてそうだ。
炎というのは単に、燃料(ガスとか石油とかアルコール)と、周囲の酸素が結びついて燃焼している化学反応だ。
聖火は、アテネからそのまま移動してきて、大会中はずっと聖火台に存在しているもののように錯覚してしまうかもしれないけど、実際は、絶え間なく供給される燃料と酸素による化学反応が連続することで、炎として見えているだけなんだよね。
つまり、アテネから来た聖火というのはタテマエであって、聖火に実体はない。
あ。誤解のないように言っておくと、僕は別に「聖火なんて嘘だ」とか言ってディスりたいわけじゃないよ。(笑)
オリンピックのシンボルである聖火は、炎という形で可視化されているけれど、そこに実体はないということが言いたいだけ。
そして、ここからが今日の本題なんだけど、実は、これは僕ら人間にも当てはまることなんだよね。
僕たちは、物理的な肉体を持っているから、この身体こそが自分自身だと思いがちなんだけど、実際のところ、この肉体は「聖火」と同じで実体がないんだ。
え?何を言ってるの?っていう感じだよね。
まあまあ、そう焦らずにもう少しだけお付き合いください。(笑)
僕らの身体は約60兆個の細胞でできていると言われてる。
で、この細胞は古くなると壊れて体外に排出されるので、僕らの身体の中では絶えず細胞の破壊と再生が繰り返されている。
周期が短い細胞は2~3日、骨のように周期が長いものでも5~6カ月で破壊されて、また新しく生まれ変わっているらしい。
めちゃくちゃ単純化して言うと、僕らが食事からとったタンパク質が身体(細胞)の一部になって、古くなった細胞は順番に壊れて身体の外に排出される、という繰り返しで身体が維持されているわけ。
つまり、半年前に僕らの身体を構成していた細胞は、今現在の身体には残っていないということだよね。
ということは、細胞レベルで言うとそっくり入れ替わっているわけだから、半年前の僕と今の僕は全くの別人と言える。
ただ、破壊と再生のスピードがゆっくりで、見た目があまり変わらないから気づかないだけなんだよね。
このことは、分子生物学者の福岡伸一さんが「動的平衡」という概念で説明しているので、興味がある方は福岡さんの書籍を読んでみると面白いと思うよ。
書籍まではちょっと・・・という方は、ブロガーの時の化石さんがわかりやすく解説してくれているので、こんな記事を読んでみるといいかも。
ということで、僕ら人間の身体は一つの固定された物体として存在してるわけではなくて、構成要素であるタンパク質、というか分子が絶え間なく流れている状態なんだ。
ね。だから、「聖火」と同じでしょ?
聖火は、燃料と酸素が連続的に供給されて化学反応を起こし続けることで、炎という形が現れているだけ。
人間は、口から取り込んだ食べ物が体内に吸収され続けることで、肉体として現れているだけ。
聖火の場合は、燃えカスの煤や二酸化炭素が排出されて、人間の場合は死んだ細胞が垢や排泄物として排出される。
つまり、僕らの肉体は分子の流れ(フロー)を瞬間的に切り取ったものにすぎないんだ。
これは川の流れに例えることもできる。
たとえば利根川という川があるね。
当然だけど利根川の上流では絶えず新しい水が湧き出し、流れ込み、その水はおそらく数週間の時を経て河口から海へと流れ出す。
利根川が何千年もの間ずっと流れ続けていたとしても、一瞬たりとも同じ川だったことはないはずだ。
だって、今利根川を流れている水は次の瞬間には別の水で構成されていて、おそらく週週間後にはすべての水が入れ替わっているんだから。
これって、僕らの身体と同じシステムだよね。
繰り返しになるけれど、僕らの身体っていうのは、「炎」や「川の水」と同じく、単なる「流れ」なんだ。
「昨日の自分と今日の自分は違う」とか「今日の自分と明日の自分は違う」というのは、メタファーでも何でもなくて、科学的な現実なんだ。
毎日毎日、いや、毎瞬毎瞬、僕らは新しい自分になってる。
自分では変わってるつもりがなくても、変わっちゃってるんだ。
そう考えると、すごく不思議だよね。
そして、「そんなに変化し続けてるなら、僕らの本質って何なんだろう?」「常に変わり続けている僕らの中の、変わらないものって何なんだろう?」っていう疑問が湧いてくる。
だって、生まれてから今まで、僕らの身体は何十回も生まれ変わってるわけだけど、変わらない何かがあるからこそ、自分を自分として認識できているはずだから。
結論から言ってしまえば、僕はそれこそが「魂」だと思ってるんだけど、長くなっちゃうのでそれはまた別の機会に書くことにするね。
それでは今日はこの辺で。
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オリンピックに「スポーツ」の本質はない。
東京オリンピックが始まって、連日いろいろな競技が行われてるね。
僕もテレビで観戦してるんだけど、観ていてふと思った。
「この人たち、やってて楽しいのかな?」
僕が見てる限り、どの競技のどの選手も、スポーツを楽しんでいるようには見えない。
スケボーの選手たちでさえ、楽しそうじゃない。(笑)
大体どんなスポーツも、始めたばかりのころはプレイすること自体が楽しくて、勝敗なんて二の次だと思う。
そもそも、子どものころはスポーツと遊びの境目なんてなかった。
友達と遊ぶ(プレイする)ことにワクワクして、朝、布団から飛び起きてた。
それなのに、続けているうちに勝敗の重要性が上がってきて、姑息な駆け引きとか、チーム内でのレギュラー争いとか、関係者の期待とか、周囲の圧力とか、本来関係のなかった要素がどんどん付随してくる。
そして挙げ句の果てには、なぜか「国家を背負って」までプレイしなきゃいけなくなる。
いや、この段階になったらもう、プレイなんていうものじゃない。
大きな圧力の下で、自分でも気づかないうちに半ば強制的に試合をさせられている状態だと思う。
子どものころに、ろくな道具も持たずに空き地でやっていたようなスポーツの楽しさが、テレビ画面の中には感じられない。
勝った、負けた、メダルをとった、メダルを逃した。
ただそれだけだ。
楽しいはずのスポーツの行き着く先がその程度なのだとしたら、実に残念だと思う。
体力を温存して予選落ちとか、判定勝ちで金メダルなんて、観ていて何の面白さも感じない。
オリンピックはスポーツの祭典らしいけど、たぶんそこにスポーツの本質はないと思う。
スポーツの本質は昔も今も変わらず、目をキラキラ輝かせながら、空き地やその辺の体育館で遊ぶ子どもたちの中にある。
おじさんたちの草野球や、ママさんバレー、温泉卓球や、昼休みのドッヂボール、スケボー少年の中にある。
オリンピックに出ている選手たちも、頑張らなくていいから、思い切り楽しんでほしいな。
国家を背負う必要は全くないし、メダルをとらなきゃいけないわけでもない。
勝利に歓喜したりメダルをとって涙する姿よりも、心から楽しそうにプレイする姿を見せてほしい。
いつかオリンピックが、国家の垣根を超え、勝敗の罠から抜け出して、スポーツの本質を楽しむ場になったらいいなぁと、テレビ画面の中の選手たちを見ながら思ったのでした。
それでは今日はこの辺で。
shivai !!
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お酒をやめて良かった10のこと
僕はもう何年も前から1日1食の生活をしてて、基本的に夕飯しか食べない。
といっても、そこまで厳密にやってるわけじゃなくて、食べたいときにはいつでも食べるし、休日は家族と一緒に2食摂ることもある。
数年前、職場の近くのパン屋さんにハマってて、しばらくお昼にパンを食べてたこともあった。
とはいえ、この1年くらい平日はほぼ夕飯だけしか食べてなくて、体重は標準体重をかなり下回ってる。
にもかかわらず、お腹周りだけがちょっと気になる…という状態がずっと続いてたんだよね。
その原因は自分でもわかってて、、、間違いなくお酒です。(笑)
休肝日は月に1回あるかないかくらいで、1年中ほとんど毎日お酒を飲んでたし。
まあ、量的には1~2合程度だから、酒量として多いほうではないと思うんだけど。
とはいえ、1日1食なのにお腹周りがスッキリしない原因は、ほぼ間違いなくお酒(≒内臓脂肪)だったと思う。
それで先月、ふと、お酒をやめたらどうなるか試してみようと思って、酒を飲まない生活を始めてみたんだよね。
あ。でも、完全に断酒してるわけじゃなくて、飲むのは週に2日まで、という緩いルールなんだけどね。
なにせ、僕のモットーは「自分に優しく。人にも優しく」だから。(笑)
で、今回は、毎日お酒を飲んでた僕が、1カ月以上 やめた(というか減らした)結果、気づいたことを書いてみるね。
お酒をやめて良かったこと
①有効に使える時間が増える
お腹周りをスッキリさせることが目的で始めたんだけど、結果的には、夜の時間が充実したことが何より良かったと思う。
僕はお酒を飲むとすぐに眠くなっちゃって、子どもを寝かしつけながらそのまま一緒に寝てしまうことも多かったし、寝なかったとしても、本を読んだり勉強をしたりという気にはなれなかった。
それが、お酒を飲まなくなってからはやりたいことが何でもできて、かなり有効に時間を使えるようになった。
自由に使える夜の時間を1日3~4時間として、飲まない日が少なくとも20日あるとすれば月に60~80時間になるから、これは結構大きいよね。
逆に言えば、今までどれだけの時間を無駄にしてきたのか?っていうことなんだけど。(笑)
②体脂肪が減る=体重が減る
これはまあ、当然といえば当然というか、これが目的で始めたことなんだけど、もともと少ない体重がさらに3㎏くらい減って、お腹周りは20代の頃に戻ってスッキリした。
てことで、たぶん内臓脂肪は全焼した・・・はず。(笑)
③体が引き締まる
内臓脂肪だけじゃなく皮下脂肪も減ったようで、筋肉の輪郭がハッキリしてきた感じがある。
筋トレは、毎日腕立てと腹筋をやってる程度だけど、自分ではアスリート体型になったなぁって感じるよ。
④出費が減る
これも当然だけど、お酒をやめると酒代が不要になるから、出費が減るよね。
僕は発泡酒とか第三のビールが苦手で、毎日ビールを飲んでたから、なおさら経済的なメリットを感じてる。
酒代が1日500円だったとすると、1カ月に10,000円以上、無駄な出費が減ったことになるね。
⑤お酒が不要な身体になる
お酒を飲む機会が減ると、たまに飲むお酒が美味しくなるだろうな~と思ってたんだけど、実際にはそうでもなかったんだよね。
身体がお酒を求めなくなったからなのか、飲んでもそれほど美味しいと思わなくなってしまった。(笑)
これはかなり意外な結果だった。
しかも、飲む機会が減ったことで酔いやすい体質になったみたいで、飲める量が明らかに減ってしまった。
今は、【お酒を飲まない → 飲めなくなる → さらに飲まなくなる】 の好循環が生まれてる。
⑥自己肯定感が上がる(ような気がする)
「お酒を飲まない」という意思を貫徹することで、苦難を乗り越えたというか、壁を打ち破ったような気持ちになるので、自己肯定感がアップしたような気がする。
実際のところ、それほど大したことをしてるわけでもないんだけど、「なんかオレって偉い」っていう気持ちになるんだよね。(笑)
⑦身体の調子が良い(ような気がする)
これは感覚的なものかもしれないけど、お酒を飲まないと身体がスッキリして軽くなったような気がする。
ただ、物理的に若い頃の体型に戻ってるので、実際に体の調子は良くなってると思うよ。
⑧睡眠の質が上がる(ような気がする)
お酒を飲んでそのまま寝てしまうと夜中に目が覚めて、そこからウダウダして、明け方にまた寝て・・・みたいなことが多かったんだけど、寝たい時間に寝るようになってからは、睡眠の質が上がった気がする。
最近は睡眠が深くなってるからか、短時間の睡眠でもスッキリ目覚めることが多くなったような気がするよ。
あくまでも「気がする」っていうレベルだけど。(笑)
⑨体臭が減った(ような気がする)
これも気がするだけかもしれないけど、なんとなく体臭が減った気がする。
まあ、もともと体臭が強かったわけではないけど、ほら、枕の臭いとかあるじゃないですか。(笑)
でも、ちょっと調べてみたら、肝機能がアップすることで体臭が減るっていう記事もあったので、お酒を減らすと体臭が減るっていうのはあり得ないことでもないみたい。
まあ、よくわからないけど。(笑)
⑩抜け毛が減った(ような気がする)
これはほとんど願望に近いレベルなんだけど、お風呂で洗髪するときの抜け毛が減ったような気がする・・・いや減ったに違いない・・・ていうか減っててください!(笑)
ということで今回は、お酒をやめて(減らして)良かったことについて書いてみた。
飲む量を減らしたいなぁとか、最近飲み過ぎてるなぁっていう人がいたら、参考にしてみてね。
ちなみに僕の場合、最近は毎日、ビール代わりに炭酸水を飲んでるよ。
慣れてしまえば、もう炭酸水で十分って感じです。
それでは今日はこの辺で。
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みなさまにお願いです。
どうも!
灼熱の日差しが薄~い毛髪のスキマを余裕ですり抜けて、ジリジリと頭皮が焼ける毎日を過ごしているノリズムです!(笑)
さて。毎日すさまじい暑さですが、皆さん、夏はどんなファッションで過ごしていますか?
僕はTシャツが好きなので、夏場の私服のほとんどがTシャツと短パンと草履です。
ただ、1つ悩みがあってですね。
Tシャツが大好きなのに、お気に入りのTシャツばかり着てると、すぐにヨレヨレになったり黄ばんだりして、ひと夏着たら「ハイおしまい」っていうことが多いんです。
お気に入りだから何度も着て、でも何度も着るからすぐに着れなくなるんです。
すごく悲しいんですよね…。
そして、「それなら、来年また同じデザインのTシャツを買おう!」と思っても、もう二度と買えないという。
さらにさらに、じゃあ、もっといいデザインのTシャツを買おう!と思って探しても、なかなか気に入るものが見つからずに、探してるうちに夏が終わってしまった…。なんてことも。
僕は、こんな悩みを20年以上抱えて生きてきたわけですが、ついに堪忍袋の緒が切れました。(笑)
こうなったら、自分で自分のTシャツを作ってやる!!!
好きなデザインのTシャツを何着もつくっておけば、何も気にせずに好きなだけ着倒せるじゃないか!って、思ったんです。
それでいろいろ調べてみて、無地のTシャツの仕入れ先も見つけて、プリントしてくれるデザイン事務所さんとも今交渉中なんです。
・・・で、そんなことをしてるうちにふと思ったんです。
あれ? もしデザインを気に入ってくれる方がいたら、販売することもできるんじゃないか?って。
まあ、いわゆるひとつの下心ってやつです。(笑)
ということで、Tシャツに関することをいろいろ調べてみたいなーと思って、アンケートをつくってみました。
所要時間は2~3分程度なので、もしよかったらアンケートにご協力いただけないでしょうか?
決してTシャツを売りつけたりしませんので。(笑)
不躾なお願いで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いします!😊
Tシャツに関するアンケート(クリックするとアンケートフォームが開きます)
https://questant.jp/q/O1U0XMA0
それでは今日はこの辺で。
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「他人との比較」から「理想との比較」へ
前回の記事で、自分が大切にしたいことに優先順位をつけるといいかもね、っていうことを書いた。
僕自身、自分が本当に大切にしたいことを明確にしたことで、幸福度が急激にアップしたことも書いた。
これは本当に実感していて、かつての自分がウソみたいに、今は毎日が楽しいし、幸せに満ちてるんだよね。
もちろん、嫌なことや腹立たしいこともたくさんあるけど、長時間そこにハマって憂鬱な状態が続くことはなくなった。
それにしても、大切にしたいことの優先順位をつけると、どうして幸福度が上がるんだろう?
僕の場合は、おそらく「他人との比較」がなくなったからじゃないかと思う。
生きることは選択の連続だけど、もし大切にしたいことの優先順位が明確でないと、何か選択を迫られたときに、その都度、何らかの判断基準を持ち出して決めなきゃいけなくなるよね。
たとえば、会社から転勤するように言われて、単身赴任せざるを得ない状況だったとするね。
このとき、本当は転勤したくないけど、「これを断ったら昇進を諦めなきゃいけないかも?」とか、「給料が下がるかも?」とか、「職場に居づらくなるかも…」とか、いろいろなことが頭をよぎると思うんだよね。
そして、昇進にしろ、給料にしろ、職場でのポジションにしろ、その前提となるのが、「周囲の目」や、「職場の同期」とか「同年代の人」なんかとの比較だと思う。
天秤の片方に「単身赴任する」という選択肢を、もう片方に単身赴任しない場合のリスク、つまり「他人の目」や「他人との比較」を載せて比べて、どうしようかと考えることになる。
だけど、自分にとって本当に大切なことが明確になっていたとしたら、どうだろう?
たとえば、「自分は家族との時間が何より大事だ」と決めていれば、選択する際の判断基準は「自分が理想とするような家族との時間を持てるかどうか」だ。
そうなると、「単身赴任」と「家族との時間」の2つを天秤にかけるだけで済むから、「他人」が出てくる余地はなくなる。
まあ、ちょっと極端な例になっちゃったけど、そういうことなんじゃないかなぁと思う。
で、この「他人と比較しない」ということは、意外と幸福度に影響してると思うんだよね。
なぜかというと、他人と比べる場合、他人の動き次第で自分の立ち位置も変わってくるから、どうなるかわからない不安定感というか、常に緊張状態に置かれることになる。
昇進の道を閉ざさないために転勤に応じたのに、超優秀な同僚のほうが出世街道に乗っちゃった、なんてことは十分にあり得る。
でも、自分にとっての理想的な状態というのは自分で決めたことだから、自分次第でどうにでもなるよね。
つまり、自分と他人を比べないということは、人生という名の車のハンドルを他人に渡さないということだ。
逆に言えば、人生の選択権を自分の手に取り戻すことになるんじゃないかと思う。
そして、そのためにまず必要なのが、自分にとって本当に大切なことをリストアップして優先順位をつける、っていうことなんじゃないかな。
それでは今日はこの辺で。
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