愛は、するものでもされるものでもない。
お久しぶりです!
あけましておめでとうございます!(笑)
最近すっかりこのブログを放置してしまっていたけど、実は去年の秋ごろからソロキャンプにドハマりしてしまって、頭の中がキャンプ一色になってました。。。
ソロキャンプは本当に楽しくて、手軽な「自由」を手にする手段として超超お勧めです。
まあ、それはさておき。
最近ちょっと悟ったことがあるので、書いてみます。
それは、愛について。
僕ら人類にとって、愛というのは至上の価値観の一つだと思う。
人類史上最大のベストセラー書と言われる『聖書』の中でもキリスト氏は愛を説き続けているし、かの天才物理学者アインシュタイン氏も愛こそが宇宙で最も強い力だという結論に達したらしい。
で、僕も、そんな気がする。
結局のところ「愛」がすべてなんじゃないかと。
宇宙は愛でできてるんじゃないか?と。
とはいえ、「愛」を実践するのが簡単なことじゃないのは僕もわかる。
だからこそ、人類は何千年もの間、争い、憎しみ、殺し合ってきたわけだから。
でも、僕は最近気づいたんだ。
人類が「愛」を適切に実践できないのは、愛というものの捉え方、愛というものの表現方法が間違っていたからじゃないか?って。
キリスト氏はこう言った。
「汝の隣人を愛せよ」と。
彼が本当にそう言ったのか実際のところはわからないけれど、もしそう言ったのだとしたら、それは彼がやっちまった最大のミスの一つだと思う。
隣人を愛せと言われるから「愛そう」とする。
けれど、できない。
子どもを愛するのは当たり前だと言われる。
でも、できない場合もある。
配偶者を愛さなければいけないという常識がある。
でも、そんなに簡単なことじゃない。
結局、何らかの対象を愛 “する” という行為そのものが今の人類には難しすぎるのだ。
そして僕はそもそも、愛というのは「する」ものでも「される」ものでもないと思う。
愛はただそこに「ある」ものだ。
Doではなく、Be。
隣人に愛をDoしようとするのではなく、私自身が愛をキープしている状態(つまり愛Be)であればいい。
隣人が、そんな状態にある私の「愛」に触れたければ触れることができるけれど、別にこちらから隣人に愛をDoする必要はない。
というか、愛をDoすることなんてできっこない。
そして、立場を逆にして考えれば、誰かから「愛される」こともできないってことだ。
つまり「愛されたい」というのは不可能な願いだと思う。
愛を「される」ことはできないけれど、愛の状態をキープしている人の愛に「触れる」ことはできる。
だから、正確に言うのであれば「愛されたい」じゃなく「愛に触れたい」だ。
つまり、愛を実践したいのであれば、僕らは自分自身が愛の状態でありさえすればいいってことだ。
愛Doではなく、愛Be。
常に自分の内側にフォーカスして、愛の状態をキープする。
愛に溢れた状態を維持し続ける。
愛を実践するために大事なのはそれだけだと思う。
でも、そもそも「愛の状態」ってどんな状態だよ!言ってること全然わかんないよ!っていう人も少なくないと思う。
愛という言葉自体かなり抽象的な表現だし、日本人は日常的に愛について考える機会も少ないので、それは当然の反応かもしれない。
なので、「愛の状態」というのがどういうものかについての僕なりの解釈は、またの機会にでも書こうと思う。
とりあえず、大事なのは「愛Do」ではなく「愛Be」。
今日言いたいのはそんなところです。
現場からは以上です。
shivai !!
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第7波とかいって、また流行りの病が広がっているみたいだけど、原点に立ち返って考えてみるといいんじゃないだろうか。
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