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 さあ、面白くなってきました。

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新型コロナを冷静に考える ~④子どものリスク~

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我が家には10歳前後の子どもが3人いるんだけど、ちょうど1年前の緊急事態宣言中は2カ月近く小学校が休みになった。

で、その分の授業を埋め合わせるために夏休みはかなり短縮され、2020年度の大きな学校行事は軒並み中止になった。

 

特に去年小学校6年だった長女は、小学校生活最後の年に、運動会、音楽発表会、遠足に加えて修学旅行も中止され、卒業式も3回に分けて超短縮で行われるという、本当に可哀そうな状況だった。

 

しかし、これって必要な措置だったんだろうか?

 

 

子どもが新型コロナに感染しにくく重症化もしないというのは、かなり早い段階でわかっていたことだ。

 

もちろん、コロナの出始めのころは未知のウイルスということで、誰もが警戒するのは当然だと思う。

ただ、半年以上経ってある程度のデータが出そろえば、もっと冷静に判断できたはずだ。

 

それなのに、いまだに大人と子どもを同様に捉えて、同じような対応・措置を行っているのは、悲劇を通り越して喜劇ですらある。

僕から見れば、まともな判断ができない大人たちが子どもを犠牲にしているとしか思えない。

 

 

それは、先日の記事でも引用したこんなデータを見れば一目瞭然だ。

 

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新型コロナによる20歳未満の死者は1年以上経っても一人もいない。

 

じゃあ、重傷者はどうなのかというと、これもゼロだ。

 

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ちなみに、これは厚生労働省のホームページからとってきたデータなんだけど、累積の重傷者数ではなく、週次のデータ(5/18時点)だから注意してね。

でも、これだけ感染者数が増えている状態で40歳未満の重傷者がゼロということなので、年間の重傷者もほぼいないと考えて問題ないと思う。

 

ちなみに、同じく厚労省のホームページに2021年1月時点での累積の年代別重症者数が載っていたんだけど、この時点でも40歳未満の重傷者はゼロだった。

 

 

ところで、日本国内ではインフルエンザ関連死が毎年1万人近くあるということは、このシリーズの第1回目に書いたよね。

 

 

この記事では年代別のインフルエンザ関連死者数については触れなかったけど、実はインフルエンザでは毎年子どもたちも少なからず亡くなっている。

インフルエンザの場合は、その年によって(ウイルスの型などによって)全体の死者数が大きく異なるけれど、毎年、乳幼児から高齢者まで幅広く死者が出ていることは間違いない。

 

そう考えると、子どもたちにとって新型コロナウイルスの脅威は、インフルエンザ以下と言える。

完全にただの風邪だ。

いや、おそらく風邪以下だ。

だから本来は、マスクだって不要。

 

これは誰がなんと言おうと、数字が証明してる。

 

もちろん、新型コロナに感染した子どもが高齢者などリスクの高い人にうつす危険性はあるけれど、そもそも子どもは感染しづらく、しかも感染したとしても発症しづらいので、周囲にうつす割合は高くない。

 

家庭内感染も、多くは大人が感染源であって、子ども由来のものは少ないと言われている。

 

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子どもはコロナにかかりにくいか 周りの大人どうすれば:朝日新聞デジタル

 

日本小児科学会が全国の小児科医の報告をもとにまとめたデータベースによれば、周囲に先に感染者がいて、だれから感染したかが推定できたケースのうち、8割近くが家族で、両親や祖父母がほとんどを占めた。

 

(朝日新聞デジタル 2020年12月5日 15時00分)

 

 

つまり、子どもは、この新型コロナ騒動の最大の被害者だと言える。

自分たちにとってはノーリスクの病気なのに、過剰に大騒ぎする大人たちのせいで、過大なストレスを与えられ、彼ら彼女らの生活が犠牲になってる。

 

これは20~30代の若者についても言えることだ。

先日亡くなった20代の力士は基礎疾患を持っていたために不幸な結果になってしまったけれど、そのような例外を除けば、若い人が感染しても重症化したり死に至ったりする可能性はゼロに近い。

 

気を付けるべきは高齢者であって、彼らと同じレベルの警戒態勢を子どもや若者に押し付けるのは理不尽だと僕は思う。

 

 

ちなみに、子どもがなぜ感染しづらく重症化しないのかについては、まだ明確にわかっていない。

ただ、仮説は幾つかあるようなので、関心がある人はこういうサイトが参考になるかも。

 

 

  

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新型コロナを冷静に考える ~③海外比較~

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最近、インドで新型コロナが爆発的に広がって、死体処理が間に合わずに公園などで火葬している映像がマスコミで繰り返し流されているのを見た。

まるでインド全土が大変な惨状になっているかのような報道のされ方だった。

(実際はそうではないということを、僕はインド在住の日本人が発信している複数の情報で知った)

 

 

そもそも昨年の春以降、日本国内で新型コロナに対する恐怖感が急激に高まった要因の一つに、海外での感染状況に関する報道があったと思う。

 

たとえば、死者があまりに多すぎて死体を処理できない惨状とか、感染者が1日に何万人も出ているとか、そういう報道を見て恐怖を感じた人は少なくないと思う。

テレビでは毎日毎日、そういう映像を垂れ流していたからね。

 

 


でも、そこでただ恐怖心を煽られるのではなくて、ちょっと立ち止まって考えてみたほうがいいんじゃないだろうか。

 

「海外はそうかもしれない。でも日本はどうなの?」と。


ちなみに、現在までのところ、海外(特に欧米)と日本では新型コロナによるリスクが全く異なるのは明らかなんだよね。

 

これは札幌医科大学のウェブサイトから拝借したデータで、新型コロナによる人口100万人当たりの死者数(5/20現在)をグラフ化したもの。

 

 

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これを見れば明白だけど、欧米と日本では新型コロナによる死亡率が全然違う。

人口当たりの死者数が最も多いブラジルは2089人、対する日本は95人で、実に22倍の開きがある。

 

つまり、新型コロナという同じ感染症であっても、そのリスクは国(人種)によって全然違うということを意味している。

 

だから、欧米と日本ではコロナに対する位置づけが違っていてしかるべきなのに、同じように考えるのはちょっとおかしい。

 

たとえば欧米と日本で新型コロナに対するリスクが異なるのであれば、ワクチンの意味合いや必要性も異なるはずなのに、同様に考えている人は多い。

 

ワクチンについてはまた改めて書くつもりだけど、こういう一つ一つの事実を前提にして、個人が自分の頭でしっかり考えて判断すべきだと僕は思う。

 

 

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新型コロナを冷静に考える ~②PCR検査と感染者数~

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毎日毎日マスコミが騒いでる「今日の感染者数」というのが、PCR検査の結果に基づいた数字だということはみんな知ってるよね。

 

じゃあ、PCR検査ってそもそも何なんだろう?

 


PCR検査という手法は、1980年代にアメリカ人のキャリー・バンクス・マリス博士が考案したもの。

マリス博士は、この発明によって1993年にノーベル化学賞を受賞してる。

 

彼は今回の騒動が始まる直前の2019年に亡くなっているんだけど、生前「PCR検査を感染症の検査に使ってはいけない」と強く主張していたんだよね。

それがなぜかというと、「使い方によっては誰でも犯人にすることができるから」と彼は言っている。

 

そのため、これまでPCR検査は、主に生物学や法医学などの分野で遺伝子解析を行うための技術として使われてきた。


つまり、PCR検査というのは、もともと新型コロナのような感染症を検査するための手法ではないということ。

それなのに、発案者の忠告を無視して、感染の有無を調べるために強引に使われているのが現状なんだよね。

 


じゃあ、そもそもこのPCR検査って何なの?というと、超ざっくり言っちゃうと、サンプルの中に含まれている遺伝子の一部を数百万倍から数十億倍に増幅して、遺伝子配列を可視化する技術。


これではわかりにくいかな。(笑)

じゃあ、たとえばこういうことかな。


ある海岸の砂浜の砂の中に砂金が含まれているかもしれないと考えたときに、砂浜の砂を一粒一粒確認するのはナンセンスだよね。

だから、砂浜から少量の砂をサンプルとして取ってきて、そこに含まれる成分を何億倍にも膨らませることで金の成分の有無を調べ、砂浜全体に砂金が存在するかどうかを推測する、ということ。


サンプルの中に入ってる砂金のカケラが肉眼では確認できないような微量なものであったとしても、何億倍にも膨らませれば金の存在を確認できるという算段だね。

 

で、これと同じようなことを新型コロナの検査でやっているんだよね。

上の例で言えば、「砂浜=人の身体全体」、「サンプルの砂=唾液や鼻水」、「砂金=新型コロナウイルスの遺伝子」、ということになる。

 


ただ、ここで一つ問題視されているのが、サンプルの中に含まれている遺伝子の破片が小さいと、本当に新型コロナウイルスのものなのかどうかがわからないということ。

ごくわずかな破片が、もしかしたら新型コロナとは全く違う遺伝子の破片かもしれないという可能性が常につきまとっていて、実際にそういう間違いが起きている。


これこそまさにマリス博士が警告してた、「使い方によっては誰でも犯人にすることができる」ということだね。

 

そして、さらに問題なのが、「PCR検査の陽性」と「感染」との違い。

PCR検査で陽性になるというのは、「採取した唾液などの中に新型コロナウイルス(らしきもの)の遺伝子またはその断片が見つかった」ということを意味するんだけど、新型コロナの断片が見つかったからといって、それは感染とイコールではないんだよね。

 

そのことを説明するためには、まず、「暴露」と「感染」と「発症」の違いについて説明しておかなきゃいけない。

 

「暴露」というのは、身体のどこかに新型コロナウイルスが付着したという状態。

たとえばコロナウイルスが手に付着したとか、顔に付着したというようなことだね。

手のひらにウイルスが付着したからといって、それが「感染」ではないことは誰にでもわかるよね。

 

もちろん、口の中や鼻の中に付着することだって当然あるんだけど、それだって単に付着したというだけであって、「感染」したということではないんだ。


「感染」というのは、新型コロナウイルスが人間の細胞の中に入り込んで初めて成立する。

だから、細胞に入り込まない段階の「暴露」と「感染」は全く異なる状態なの。

 

さらに、細胞の中に入り込んだからといって発熱などの症状が出るわけじゃない。

つまり「発症」したわけじゃない。

感染しても身体の免疫機能などによって排除されれば、何の症状も出ないまま終わる。


この「暴露」と「感染」と「発症」が別物だということがわかっていると、PCR検査の “ウソ” がわかる。


暴露(身体に新型コロナウイルスが付着)しただけであれば、コロナに感染したわけではないし、ましてや発症とは程遠い状態なんだよね。

だけど、PCR検査では「暴露」段階のコロナ遺伝子も増幅させちゃうから、検査結果は陽性になる。

つまり、「感染」していない人も陽性になっちゃうんだよ

 

後日改めて書くつもりだけど、特に子どもは暴露しても感染しにくいので、子どもの陽性者には感染者でない人が相当含まれているはず。

にもかかわらず、PCR検査では、「暴露」しただけの子どもを陽性者としてカウントしてしまう。

 

そして、感染も発症もしていない人を新型コロナ陽性者としてカウントするのみならず、最悪なことに、マスコミはそれを「感染者」として発表してる

 

ちなみに、PCR検査には偽陽性や偽陰性という問題があって、本当は感染しているのに陰性となってしまったり、逆に、感染していないのに陽性になったりするケースが少なからずあることがわかっている。

というか、この手の検査には必ずこの問題がつきまとう。

 

新型コロナの場合は、100人検査したら偽陽性が30人いる、なんていう研究報告もあるくらいだから、PCR検査による新型コロナの判定は、そもそもの信頼性がかなり低いと言わざるを得ない。

 


だから、毎日マスコミが騒いでる「感染者数」というのはそもそもかなり怪しい数字であって、なおかつ本来の意味での感染者の数じゃなくて、水増しされたものなんだよね。


新型コロナに感染したわけではなく、だから当然症状もなく、誰にもうつす可能性がない人も一緒にまとめて数えて、マスコミは「今日の東京の感染者数は○○○人を超えました!」なんて言ってる。

で、それを見た多くの日本人が、「ひえ~っ!怖い!大変だ!」なんて怯えてる。(笑)


いったい何なんですかね、コレは。。。

 

 

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新型コロナを冷静に考える ~①死者数と死亡率~

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「新型コロナを怖がる必要はない」とか、「新型コロナはちょっと怖い風邪程度」だなんて、ただ言ってるだけでは説得力がないし、耳を貸してくれる人は少ないので、客観的な数字で見てみようと思う。

 

今回は、1年間の死者数と人口当たりの死亡率について考えるよ。

 

 

その前に、新型コロナ感染者が国内で初めて見つかったのはいつか、初めて死者が出たのはいつか、みんな覚えてるかな?

 

国内初の感染者が見つかったのは、昨年2020年の1月14日で、武漢から帰国した神奈川県在住の30代男性だった。

そして、国内で最初の死者が出たのは、それから約1か月後の2020年2月13日で、同じく神奈川県在住の80代の女性だ。

 

だから、本来、新型コロナウイルスの年間死者数を考えるには、2020年1月から2020年12月までの1年間の数字で考えるべきなのだろうけど、国内で本格的に感染が広がり始めたのは2020年の3月ごろからだと思うので、今回は2020年1月から2021年3月末までの1年3カ月間の死者を年間死者数として計算するね。

 

新型コロナウイルスによる累積の死者数は、国立社会保障・人口問題研究所のホームページからダウンロードできる。

これによると、2021年3月29日時点の累計死者数は、9,091人。

 

ただ、今回は年代別の死者数を見たいので、この9,091人のうち、年齢不明の人を除くことにする。

そうすると、年齢が明らかになっている死者数は7,436人。

ちょっと誤差が大きくなっちゃうけど、まあ仕方ない。

 

ただ、この時点で一つ言えることがある。

それはインフルエンザとの比較なんだけど、インフルエンザ関連死による年間死者数は約1万人と言われているんだよね。

これは厚生労働省が過去に発表していることだから、間違いない。

 

Q. 通常の季節性インフルエンザでは、感染者数と死亡者数はどのくらいですか。

例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。

国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。

また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。

 

(厚生労働省)

 

だから、新型コロナ関連の年間死者数(9,091人)は、インフルエンザのそれよりも少ないということ。

これが一つポイントだね。

 

 

次に、新型コロナによる2020年1月から2021年3月末までの、年代別の死者数を見てみよう。

これはさっきも言ったけど、9,091人のうち年代がわかっている7,436人に限定した数字だよ。

 

 

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 ご覧のとおり、新型コロナ関連死者のうち60代以上が約97%を占めている。

50歳未満は合計でも1%に満たないんだよ。

 

今回は、「高齢者」とだけ記載されていて具体的な年齢がわからない373人と「年齢非公表」の1,282人を除外して考えたけど、この人たちのほとんどが60歳以上と考えると、高齢者の占める割合はさらに高くなるんだよね。

 

つまり、死者数で見る限り、50歳未満の人にとって新型コロナはそんなに怖い病気じゃないということ。

 

 

じゃあ、次に、人口に占める死亡率を見てみよう。

人口は、総務省統計局の統計サイトから2020年1月1日現在の人口推計データを引っ張ってきた。

 

各年代の推計人口と、先ほどの新型コロナ死者数を合わせてみれば、年代別の新型コロナ死亡率を計算できる。

 

 

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各年代の総人口に占める死亡率を右端の列に記した。

当然ながら40代までは死亡率0.000%で、50代になってようやく0.001%になる。

60代でも0.003%にすぎない。

これは、10万人のうち3人が亡くなることを意味してる。

 

ただ、90代以上になると死亡率は0.073%で、10万人で73人、つまり1万人のうち7人が亡くなることになる。

 

 

これらの数字を見てみなさんはどう考えるだろうか?

もちろん、今後ウイルスがさらに変異して強毒化する可能性もあるから、今後のことについて明確には言えないけれど、少なくともこの1年間の状況はこの程度だということだ。

 

1年間で9,000人以上の人が亡くなっているのだから、人命という点においては軽々に語れることではないし、医療従事者の方々の懸命な救命活動によって支えられている面もあると思う。

 

ただ、数字上はインフルエンザと同程度のウイルスで、しかも50歳未満の死亡率は0%のこの疾病に対して、これほどまでに大騒ぎする必要があるんだろうか。

 

マスコミのいいかげんな報道に煽られ、恐怖心を掻き立てられて、多くの人が踊らされているということが少しはわかってもらえるといいんだけど。

 

 

僕らはこんな茶番劇をいつまで続けるんだろう…。

 

 

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新型コロナで露呈する日本人の同調圧力

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新型コロナをめぐる日本社会の現状を見るに、同調圧力がすごいなぁと感じる。

 

だからこそ自粛警察みたいな人が出てくるし、僕のように「コロナはちょっと怖い風邪」だなんて言おうものなら、白い目で見られることになる。

白い目で見られないにしても、「この人、もともと変わった人だから仕方ないよね…」くらいの扱いをされるか、無視されるのがオチだ。


仮に僕と同じような考え方を持っていたとしても、それを表には出さない人のほうが圧倒的に多い。


だから、例えばSNSやグループLINEみたいなところで僕がそういう発言をすると、その場では波風の立たない発言をしたり無関心を装いつつ、ダイレクトメールで「いや、実は私もそう思ってるんですよ…」って伝えてくれる人も少なくない。

 

これって、第二次世界大戦中の庶民の行動と大して変わらないよね。

表面上は「鬼畜米英!一億玉砕!」とか叫んで竹槍で空を突きながらも、実際のところ戦争に飽き飽きしていて、負けることもわかってる、という。

 

ちょっと考えてみてほしい。

3年後の世界はどうなってると思う?

今みたいに、感染者が出るたびに大騒ぎして休校やオフィス封鎖したり、「今日の感染者は○○人でした!」なんてマスコミが煽ってると思う?

 

僕は、3年後、このコロナはインフルエンザと同じような扱いになってると思う。

だったら、今の時点でもそれくらいの認識でいたほうがいいんじゃないかな?


コロナコロナと振り回されて、怒ったり恐怖に怯えたりすれば、大きなストレスを溜め込むことになる。

ストレスは免疫力を低下させる大きな要因だから、本末転倒だよ。

 

ちなみに、新型コロナのワクチンについて、厚労省のHPにはこんなふうに書いてある。

 

現時点では感染予防効果は明らかになっていません。

ワクチン接種にかかわらず、適切な感染防止策を行う必要があります。

 

臨床試験や接種が始まってから時間があまり経過していないことから、効果の持続期間については明らかになっていません。

今後の情報が明らかになるのを待つ必要があります。

 

こんな状態のワクチンをみんな打とうとしていて、効果がどれくらいの期間続くのかも全くわからない。

仮にワクチンの効果が数カ月しか続かなかった場合、今後ずっと数カ月おきにワクチンを打ち続けるのかな?

そんなことあり得ないと思う。

 

国内のコロナ関連死者の95%が65歳以上で、それ以外の年代の死者の多くは基礎疾患者。

50歳未満の死亡率は極めて低い。

 

誤解を恐れずに言えば、これは年金問題や雇用問題、国の借金問題と同じで、高齢者のツケを若者に回してるだけだと思う。

 

この状況を冷静に見て思考・行動・発言できる人が少ないというのが、実に恐ろしいことだ。


多くの人にとって新型コロナは、恐怖に怯えるような存在じゃない。

 

 

もちろん、高齢者や基礎疾患者はできるだけ外出しないようにしたほうがいい。

高齢者との接点がある人も極端な行動は控えたほうがいい。

だけど、それ以外の人は感染することを前提に普通に生活して、免疫力を落とさないように気を付ける、というのが一番なんじゃないかな。

そうやっていれば、そのうち集団免疫を獲得できるわけだから。

 

そして、それ以前の話として、同調圧力に屈するのはやめようよ。(笑)

 

 

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思考停止によって悲劇は繰り返される。〜新型コロナ騒動記〜

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今回の記事は、このブログの趣旨とは違うネガティブな内容なんだけど、ちょっと思うところがあって書こうと思う。

 

 

あなたは、1年余り前から続くこの新型コロナ騒動についてどう考えているだろうか?

 

そもそも新型コロナウイルスというものをどのように認識し、どんなスタンスで生活しているだろうか?

 

 

そして、もし身近な人から次のようなことを尋ねられたら、あなたはどう答えますか?

  

  • 新型コロナウイルスって何?
  • PCR検査って何?
  • PCR検査陽性者と感染者の違いは?
  • 暴露・感染・発症の違いは?
  • 新型コロナってどれくらい危険なの?
  • 日本の新型コロナ年間死者数は?
  • 新型コロナ死者数はどうやって数えてるの?
  • 日本人の新型コロナ致死率は?
  • 日本で新型コロナで亡くなってるのはどんな人?
  • 日本のインフルエンザ年間死者数は?
  • インフルエンザと新型コロナの違いは?
  • マスクにはどんな効果があるの?
  • 緊急事態宣言にはどんな効果があるの?
  • 医療崩壊ってどういうこと?
  • 新型コロナ用の病床が逼迫するのはなぜ?
  • ワクチンって何?
  • ワクチンにはどんな種類があるの?
  • 新型コロナワクチン(mRNAワクチン)って何?
  • 新型コロナワクチンには効果があるの?
  • 新型コロナワクチンのメリットとデメリットは?

 

今の時代、この程度のことなら、その気があればすぐに調べられる。

 


でも、おそらく多くの日本人はこれらの質問に答えられない。

自分では何も調べようとせず、自分の頭で考えることをせずに、政府の発表(まさに大本営発表 笑)やワイドショーレベルのマスコミ報道を信じて、怯えたり怒ったりして騒いでいる。

 

 

76年前の悲劇は、大本営発表を信じ続けた国民が軍や政府と一体となって引き起こした出来事だ。


彼らが犯した間違いのために、国土は焼け野原になり、国内外の多くの人間を死に至らしめた。

 


そして今、自分の頭で考えずに、政府やマスコミの煽り報道を信じて騒ぐ人々が、この国を経済的に焼け野原にし、統制型社会を招こうとしているように僕は感じる。


76年前と違って、正確な情報はすぐ目の前に転がっているのに。

 


コロナ騒動が始まって1年余り経った今、僕自身はこう考えてる。

高齢者や一部の基礎疾患者を除けば、日本人にとって新型コロナはちょっと怖い風邪

インフルエンザと同程度。

 

 

もちろん、いろいろな考え方があって当然だから、僕とは全く違う認識の人も多いに違いない。

 
だけど、極端に言えば、それが自分の頭で考えた結果なのであれば、どちらでもいいことだと僕は思ってる。

 

 

自分の頭で考えて自分の心に従って行動するということを放棄するのであれば、76年前と同じような悲劇はこれからも繰り返されるに違いない。

 

 

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いよいよ5月。変化の年の、変化の始まり。

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数字には意味がある。

 

何を当たり前のこと言ってるんだって言われそうだけど、そういうことじゃない。

何が言いたいかというと、数字っていうのは、その数字が持つ意味以上の意味を持ってるっていうこと。

 

たとえば、4という数字は、「何かが4つある」ということだけを意味しているわけではないんだよね。

 

だから日本では、「死」を連想させる「4」は避けられることがある。

4という数字がつく部屋のないホテルやマンションもあるらしいね。

つまり4は、「4つ」という以上の意味を持っているっていうことだ。

 

それ以外にも、例えば慶弔事では偶数が嫌われがちなので、祝儀や香典で4万円を包む人はいない。

2万円とか6万円を包む人も少ないと思う。

8は漢字で書くと八だから、「末広がり」っていうことでアリみたいだけど。

 

パチンコでも、偶数は嫌われる。(笑)

確変数字は111、333、555、777、999だからね。

 

これを書いてて思い出したけど、ゾロ目というのも意味を持ってるよね。

同じ数字が並んでいると、なんだかちょっと特別感がある。

特に777はラッキーナンバーっていうことで、自動車のナンバープレートの数字を777にしてる人は時々見かけるね。

 

エンジェルナンバーを大事にしてる人もいる。

 

そういえば、エジソンを超える天才発明家と言われる二コラ・テスラは、「3、6、9という数字のすばらしさを知れば、宇宙への鍵を手にすることになる」と言っていた。

 

 

こんなふうに、数字には、その数字がもともと持つ以上の意味があって、人間は古来からそれを活用したり、それに振り回されたりしてきた歴史があるんだよね。

そんな中でも、特異なポジションを築いているのがカバラ数秘術。

 

で、僕は数秘術にも関心があって、最近は数字の持つ不思議な力を生活の中で活かすようにしてる。

 

 

そして、ここからが今日の本題なんだけど、数秘術的にいうと、今年2021年は

 

2+0+2+1=

 

というふうに計算して、「5の年」に当たる。

で、数秘術では、5という数字は「変化・変容」を表す。

 

だから、今年の大きなテーマとして「変化」というのがあるんだけど、年明けから4月まで、それほど大きな「変化」を感じなかったという人も多いかもしれない。

 

というのも、それぞれの月の数字はこんなふうになるから。

 

2021年1月: 2+0+2+1+1=6

2021年2月: 2+0+2+1+2=7

2021年3月: 2+0+2+1+3=8

2021年4月: 2+0+2+1+4=9

 

数秘術的には、今年1月は、2月は、3月は、4月はということになる。

 

詳しい説明は省くけど、今年の4月まではまだ今年のテーマである「5」を体現する状況ではなかったんだよね。

 

そして、この5月は

 

2021年5月: 2+0+2+1+5=10

 

となるんだけど、

数秘術では基本的に2桁の数字は再度分解して足し合わせるから、

 

2+0+2+1+5=10 =1+0=ということになる。

 

つまり、この5月は1の月になる。

数秘術的に、1は「始まり・スタート」を意味するから、この5月からいよいよ本格的に今年のテーマである「変化・変容」が始まることになるのかもしれない。

それが急激な変化か、それとも少しずつ変化するのかはわからないけれど。

 

ちなみに言うと、5月に始まった変化は、おそらく9月にピークを迎えることになるんじゃないかな。

というのも、

 

2021年9月: 2+0+2+1+9=14 =1+4=

 

つまり、9月はの月で、変化の年2021年の中でも特に変化を表すことになりそうだから。

 

 

変化の年である2021年の「変化」は、この5月からいよいよ本格化する。

そしてそれは、「変化」のピークである9月に向けて高まっていく。

 

かもしれない。知らんけど。(笑)

 

 

まあ、信じるか信じないかは・・・

 

あなた次第ですっ! ド━━ m9(゚Д゚) ━━ン!

 

 

 

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【効果抜群!】 感覚をマヒさせて自分を見失うための3つの方法

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  • あなたは今どんな気分ですか?
  • あなたが今やりたいことは何ですか?


こう尋ねられたら、どう答えるだろうか。

すぐに答えられるだろうか。


20~30代の頃の僕は、こんなふうに尋ねられてもパッと答えることができなかった。

それは、自分が今何を感じていて何をしたいのかが、わからなくなっていたから。

 

一言で言えば、自分で自分のことがわからなかったわけだ。

つまり、自分を見失っていたということだと思う。

だから、何のために生きているのかわからず、生きていることが楽しいとも思えなかった。


今は全然違うけどね。

 

当時の僕がどうしてそんな状態だったのか、今振り返ってみると、よくわかる。

そんな僕が考えた「自分を見失うための3つの方法」を、早速みなさんに伝授します!(笑)

 

  1. 嫌なことを我慢し続ける
  2. やりたくないことを頑張ってやり続ける
  3. 自分の気持ちを押し殺して誰かのために尽くし続ける

 

一つ一つ説明しようかと思ったけど、気が滅入りそうなのでやめときます。(笑)

 

この3つのうちどれか一つでも継続できれば、それほど時間をかけずに自分を見失うことができます。

もし3つを同時に行うことができたら、さらに効果がアップします。


感覚をマヒさせてみたい方、頭の中をモヤモヤで満たして自分を見失ってみたい方は、ぜひトライしてみてね!

漏れなく「五里霧中」という言葉の意味が実感できると思います。(笑)

 


※自分を見失った後の責任はとれませんので、自己責任でお願いします…。

 

 

【追記 2021/4/30】

この3つの手法を過去に使ったことがあるブロガーのテンジロウさんが、実体験に基づく効能をコメント欄で紹介してくださいましたので、ここでもシェアさせていただきます!(笑)

 

・毎朝、吐き気を感じる事ができる。

・家族に八つ当たりすることができる。

・周りの人間を嫌いになれる。

・車のアクセルが軽くなる。

・食欲を無くすことができる。

・3000円ぐらいの滋養強壮剤を飲むようになる。

・何事も人のせいにできるようになる。

・幻聴が聴ける。

 

テンジロウ氏)

 

私自身も、すべて経験あります。(笑)

 

 

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「誰かが望む自分」になる必要はない。ただ自分であればいい。

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僕は長年マーケティングの仕事に携わってきたんだけど、マーケティング界隈では、「良いものをつくっただけでは売れない」ということがよく言われる。

つまり、どれだけ良いものをつくっても、ニーズがなければ売れないし、仮にニーズがあったとしても、それを効率よく売るための仕組みがなければモノは売れないということだ。

だから、まずはニーズを把握した上で商品開発を行い、マーケットにふさわしいやり方で適切なマーケティング戦略を組み立てましょう、ということになる。


確かに、モノやサービスを売るためには、買い手のニーズや意識を把握して、それに合わせる必要はあるだろうと思う。

つまり、モノを売りたいのであれば、それをヒト(買い手)に合わせる必要があるということだ。

 

これと同じ論理で、就職活動について語ったり、人間関係について話したりする人を見かけることがある。

簡単に言うと、「相手が望むような自分」にならなきゃいけないというようなこと。

 

でも僕は、マーケティングというのはあくまでもモノやサービスに関することであって、僕ら人間に当てはめちゃダメなんじゃないかと思ってる。

 

自分自身の成功や幸せを求めて、人に合わせちゃダメだと思うの。

つまり、「相手が望むような自分になろうとする」ことは、とっても危険だということ。

 

自分を殺して人に合わせることを繰り返していると、いつの間にか自分を見失ってしまうから。

そして、自分は誰で、本当は何をしたいのかわからないまま人生を終えることになる。

 

 

 

この前ね、道端を歩いてるときに、道路わきのアスファルトの隙間に咲いてるスミレを見つけた。

僕はスミレが好きなので、思わず近寄って眺めてしまった。


だけど、当然スミレが僕に声をかけてきたわけではなく、何か強烈なアピールをしてきたわけでもない。

スミレはスミレとして、淡々と道端に咲いていただけだ。

スミレ以上の何かになろうなんて考えもせず、ただスミレとしての自分を表現してただけ。

そして、スミレが好きな僕が、ひっそりと咲いてるスミレを見つけて、嬉しくなって近づいただけだ。

 

 

でも、もしスミレがスミレ以上の何かになろうとしてたとしたら、どうだろう。

たとえば、「自分はヒマワリみたいになりたい!」と考えてヒマワリっぽいスミレとして咲いていたら。

 

おそらく、スミレ好きな僕はその花を好きにはならないと思う。

逆に、ヒマワリが好きな人からも「変な花だな」と思って敬遠されるに違いない。

もしかしたら、無駄に目立ち過ぎたことで乱暴な若者の目に留まり、引っこ抜かれちゃうかもしれない。


結局、”ヒマワリっぽいスミレ“ は、スミレとしてではなく、ヒマワリとしてでもなく、なんだかよくわからない中途半端な存在としてその短い一生を終えることになるんだろうと思う。

 

 


自分らしく自分の持ち場で楽しく咲いていれば、自分のことを大切にしてくれる人や自分を必要としてくれる人は、いずれやってくる。

ベストなタイミングでやってくる。

逆に、自分以外の何かになろうとしたら、本来の自分が望まない人や状況を引き寄せることになりかねない。

 

だから、自分以外の自分になろうとする必要なんて、まったくない。


僕ら人間は、商品でもサービスでもないんだから、他人に合わせて自分を変形させたり、無理にアピールする必要はない。

 

 

「誰かが望む自分」になんてなっちゃダメだ。

道端に楚々と咲くスミレのように、ただ淡々と自分自身であればいい。

 

 

 

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10年後の日本をテケトーに考えてみた。

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前回の記事の中で、10代の頃の僕は「電話が手のひらサイズになるとは思ってなかった」ということを書いてて、ちょっと思い出したことがあった。

 

高校卒業後、僕は大学受験に失敗して駿台予備校に1年間通っていた。
それについては以前こんな記事を書いた。

 

 

この記事は、僕が尊敬する奥井潔先生について書いたものなんだけど、当時の駿台予備校には強烈な個性を持つ先生がほかにもたくさんいた。

英語科の表三郎先生もかなりの変人だった。


あのころの予備校講師には、全共闘世代の生き残りみたいな人がたくさんいたんだよね。

学生運動で暴れすぎて、就職できないまま予備校で働いてるような人が少なくなくて、表三郎氏もそんな講師の一人だった。

最初の授業のときの自己紹介で、彼が「趣味は革命」とか言ってるのを聞いて、思わずのけぞった記憶がある。(笑)


そんな表氏が、あるとき雑談の中で、「近い将来、誰もが手のひらサイズの電話を持つような時代が来る」と言っていたのを僕は覚えてる。

どうしてそんなことを覚えてるかというと、僕は、「そんな夢みたいなことがホントに実現するの?!」って驚いたから。


今改めて調べてみると、既に当時「超小型携帯電話ムーバ」というのがNTTから発売されていたみたいなんだけど、あのころの僕はそんなこと全く知らなかった。

だから、電話といえば有線で据え置き型の、両手で抱えるようなものしかイメージできなかった。

手のひらに収まるサイズの電話なんて、ドラえもんの道具のように現実感のないものだった。


でも、結果的に表氏の言ってたことは現実になって、彼の何気ない言葉は僕の記憶に残ることになった。

まあ、おそらく彼は雑誌か何かで読んだことを披露しただけだと思うけど。(笑)

 

 

ところで、僕らが生きている今は、あの当時(20世紀末)よりも遥かに変化の激しい時代だよね。

だから、これから10年後の世界は、僕らが想像もしていなかったような世の中になってるのかもしれない。


一方で、想像できることも結構ある。

その代表的なものの一つが自動運転技術の進化かな。

自動運転についてはかなり現実化が近づいてるから、10年後には、僕らの生活スタイルはすっかり変わってると思うし、日本の産業構造も今とは大きく異なってると思う。

 

てことで、完全(無人)自動運転車が普及した、10年後の日本社会をちょっとイメージしてみよう。

 

  • 都市部ではマイカー所有者が激減して、車を持っている人の多くはマニアや愛好者。
  • 多くの人はカーシェア的な感じで、必要に応じてスマホ一つで自動運転車を呼び出して利用。
  • でも、田舎では自動運転車は少ないかも?
  • 工事用の重機など、大型の特別車両は有人運転のまま。
  • “流し”の無人自動運転車が、24時間365日、タクシーのように街中を巡回している。
  • 郊外の大型駐車場にはたくさんの自動運転車が待機し、必要に応じて出入りする。
  • 輸送用のトラックは運行状況を完全に管理されていて、最も効率の良いルートで休みなく日本中を走り回っている。
  • 当然、トラックやタクシー、バスのドライバーという職業は消滅してる。
  • 自動運転車のユーザーは自分で運転する必要がないので、移動時間を自由に使える。
  • 例えば、夜中に東京で自動運転車を呼んで乗り込み、目的地をセットして眠りについて、朝目覚めたら福岡に着いてる、なんてことは普通。
  • 旅行に行くときも車内の時間を楽しめる。お酒も飲める。
  • 燃料補給のしやすさから、すべてがEV(もしくは水素自動車?)に置き換わり、ガソリンスタンドは電気スタンド(もしくは水素スタンド?)に転換しており、数も減っている。
  • ガソリン消費量の減少により、石油関連産業は否応なく業態変換している。
  • 自動車所有者が減ることで、旧来の自動車関連産業は大きな打撃を受けている。
  • 自動車事故が激減して、自動車保険のニーズはほとんどない。
  • 自動車学校などの運転免許関連業界はほぼ壊滅。
  • 街中の駐車場の多くは必要なくなり、不動産価格は下落。
  • 都心部の土地にゆとりができるので、公園など緑が増える。
  • 排気ガスの減少で、空気は綺麗になる。


だーっと妄想したところでは、こんな感じかなぁ。

他にもいろいろあるだろうけど、僕の想像力ではこのくらいが限界。(笑)


この文章を10年後に読み返したら、どう感じるんだろう?

ちょっと楽しみだ。

 

 

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世界は確実に良くなってるんじゃないだろうか。

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僕はほとんどテレビを見ない生活(スポーツ中継とNHKスペシャルを除く)をしてるけど、それでもたまにニュース番組を見ると、世の中は問題だらけであるかのように感じてしまうことがある。

 

新型コロナは言うまでもなく、環境問題、国際紛争、災害、貧困問題、食糧問題、少子高齢化問題、財政問題などなど・・・。

考え始めたら、そりゃもう、世界はお先真っ暗なんじゃないか?っていう気になってくる。

 

でもね、僕はね、世の中はどんどん良くなってきてると思うんだ。

 


というのも、今日、久しぶりに高杉晋作の辞世の句を目にしたんだよね。

 

おもしろき こともなき世を 面白く

 

(高杉晋作)


僕は中学~高校時代に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にハマってて、その中で書かれてた高杉晋作のこの句がすごく好きだった。


ちなみにこの句は短歌の上の句で、晋作は臨終の床で歌を詠もうとしたんだけど、上の句だけ読んだところで詰まってしまったんだよね。

それで、その場にいた何とかっていうお坊さんが「すみなすものは 心なりけり」と、下の句を続けたらしい。

だから、高杉晋作の辞世の句としては「おもしろき こともなき世を 面白く すみなすものは 心なりけり」とされてるけど、晋作が実際に読んだのは上の句だけみたい。


たしか『竜馬がゆく』ではそんなふうに描かれていたと思う。

 


で、10代~20代のころの僕はこの晋作の句が好きだった。

それは今思えば、当時の僕自身が「世の中はつまらない」と思っていたからだと思う。

 

10代のころは20世紀末で、バブル崩壊直後。

阪神大震災やオウム事件があったり、1999年に地球は滅亡するなんていうことも言われてた。

それに、何より僕自身が受験生活に辟易としてて、生きることが楽しいとは思えなかった。


だから、晋作の辞世の句を見て自分を奮い立たせてたんだろうと思う。

 

おもしろき こともなき世を 面白く

 

でも、今朝久しぶりにこの句を目にして、おお~懐かしいなぁとは思ったものの、これが全く心に響かなかったんだよね。

それはたぶん、今の僕は「世の中が面白くない」とは思っていないからだと思う。

確かにニュースを見れば、世界はネガティブなことで溢れてて問題だらけのように感じるけど、でも昔に比べたら確実に世の中は良くなってると思うんだよね。


コンビニに行けばそこそこ美味しいものがいつでも買える。

100円ショップでは、以前は考えられなかったような値段でいろんなものが買える。

格安航空券で簡単に海外に行くこともできる。

ユニクロにしろ、IKEAやニトリにしろ、悪くない品質の商品を手ごろな価格で売ってくれる。


そして、いつでも誰とでも繋がれるデバイスが手のひらサイズになってて、カメラ、カーナビ、テレビ、ラジオ、電話、音楽プレイヤー、録音機、書籍、雑誌、新聞、時刻表、懐中電灯、電卓、タイマー、クレジットカードなどなど、中に何でも入ってる。

 

若い頃あれだけ苦労して手に入れてたエロコンテンツでさえ、一瞬で、しかも無料でゲットできるぜ! イエ~イ!!


Amazonさんのおかげで自宅から出ることなく、一瞬で買い物できる。

やる気さえあれば、スマホ一つで起業することすらできる。


これって、30年前の僕には想像もできなかったことだ。

電話が手のひらに収まるようになることさえ考えられなかったわけだし。

 

さらには、昭和的なおかしな価値観はどんどん薄れてきてるし、労働環境も少しずつ良くなってる。

コロナのおかげでリモートワークも普及し始めた。

子どもを持つ人が働きやすい環境も整備されつつある。

地球環境に対する意識も高まってきてる。

SNSによって個人の発言力が高まったことで、ハラスメント的なことや不正行為もしづらくなってきてる。

かつては日常的にあった戦争や貧困も、今は遠い昔。

 

もちろん、今でも世界中には問題がたくさんあるけど、少なくとも僕が10代の頃に比べると世の中は確実に良くなってきてると思う。

そして、やる気さえあれば何でも手の届くところにある。


だから、晋作の句が心に響かなくなったんだ。

 

今の世の中は、十分に面白い

 


そして、想像したくなるんだ。

幕末の時代を「面白くない」と感じつつも、命を燃やして怒涛のように駆け抜けた高杉晋作が今の世の中を見たら、どう感じるんだろうか。

もし彼が今の時代に生きていたらどんなふうに生きるんだろうか。


彼の辞世の句を久しぶりに目にして、そんなことを感じたのでした。

 

 

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すべてが中立・ニュートラル【バシャール・ゼミ】

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私たちは毎日さまざまな出来事に直面します。

ほんの些細なこともあれば、大きく心を揺さぶられるような出来事もあります。

ある程度予測できることもあれば、想像もしていなかったことに巻き込まれることもあります。

そして私たちは、何か大きな出来事があると感情を揺さぶられ、悲しみに暮れたり、怒りを感じたり、場合によっては絶望したりすることもあります。

 

そのようなネガティブな出来事に直面したとき、私たちはどのように対処すればいいのでしょうか?

自分の力ではどうにもならないような辛く悲しい出来事だった場合には、ただじっと時間が解決してくれるのを待つしかないのでしょうか?


バシャールはこんなふうに言っています。

 

すべての状況、すべての事柄は、本当は中立です。

そして、中は空っぽです。

それがあなたの目にどんなふうに映るとしても、本来の意味とは関係ありません。

あなた自身が与えた意味が、「あなたにとっての意味」となります。

ポジティブな意味を与えれば、ポジティブな結果が出ます。

ネガティブな意味を与えれば、ネガティブな結果が出ます。

とても簡単な物理学、とても簡単な仕組みです。

 

(バシャール)


つまり、あらゆる出来事は、その出来事自体がもともと持っている意味などないということです。

もし仮に、あなたにとって嫌なことが起きたとしても、それは、あなた自身がその出来事に何らかの意味を与えているから嫌な出来事になってしまっているだけ、ということです。

 

 

たとえば、インドで大人気のスポーツ、クリケットで、インディアンスとスパーキングスというチームの試合があって、インディアンスが勝ったとします。

勝ったインディアンスのファンは大喜びして騒いでいます。

一方で、負けたスパーキングスのファンはがっくりと肩を落としてトボトボと家路に着いています。

 

ところで、あなたはこの試合の結果を知ってどう感じるでしょうか。

おそらく、特に感情が動くことはないでしょう。

なぜなら、インドのクリケットの試合結果は、あなたと何も関係のないことだからです。


クリケットの試合があって、片方のチームが勝ったという事実そのものには、もともと何の意味もないのです。

しかし、両チームのファンや選手は、試合の結果に大きな意味を与えているので、同じ現実を見ているのに全く違ったものに見えるのです。

 

つまり、自分がどんなスタンスでその出来事と向き合うか、どんな観念や思い込みを持っているかによって同じ現実が全く違った意味合いを持つことになるのです。


私たちは、起きた出来事そのものを見ているのではなく、自分自身の観念や思い込みというフィルターを通して出来事を見ているのです。

つまり、どんな観念を持っているかによって、一つの出来事がポジティブなものになったりネガティブなものになったりして、感情を揺さぶられるわけです。

 


たとえば、ある人がコンビニに行って商品を手に取り、それをレジに持っていって会計をしたとします。

そのとき店員は何も言わずに商品を受け取って、ぶっきらぼうに合計金額だけを告げ、無言でお釣りを返しました。

その人は店員の態度を腹立たしく感じて、イライラしながらそのコンビニを出ました。


ところで、なぜこの人はイライラすることになったのでしょうか?

それは、その人の中に、次のような観念があったからかもしれません。

 

  • 店員は、客に対して丁寧な接客をしなければいけない。
  • 挨拶をするのは社会人として当然のことだ。
  • 物を売る側よりも、お金を払う側のほうが立場が上だ。

 

このような観念があるから、そうでない行動をする店員に対して腹立たしさを感じるわけです。
もし、このような観念を持っていなければ、態度の悪い店員を見ても何も感じないはずです。

 

つまり、起きた出来事そのものに意味があるのではなく、自分自身が持っている観念に基づいて意味づけをしてしまうから、感情を揺さぶられることになるのです。


言ってみれば、あらゆる出来事は本来ミネラルウォーターのように無色透明なものです。

しかし、そのミネラルウォーターを青いグラスに入れれば青い水のように見え、赤いグラスに入れれば赤い水に見えます。

ですが、どんな色のグラスに入れたとしてもミネラルウォーター自体は常に無色透明です。

そして、その無色透明の水を色のついたグラスに入れているのは常に自分自身なのです。


ですから、もし私たちが何らかの出来事に直面して、感情を大きく揺さぶられるようなことがあったときには、もともと無色透明であるはずの出来事を、自分はいったいどんな色のグラスに入れてしまったのだろうか?と考えてみるといいかもしれません。

つまり、自分自身がその出来事に対してどんな観念を持っているのかを考えてみるということです。

 

ちなみに、バシャールはこんなふうに言っています。

 

観念に気づいたら、それは中立になり、あなたの中にはもうその観念はなくなります。

ちょうど電気のコンセントを抜いてしまったようなものです。

 

(バシャール)

 

起きた出来事に対して自分はいったいどんな意味を与えているのか?

それは自分自身のどんな観念や思い込みから生まれたものなのか?

それに気づくことができれば、その出来事は本来の無色透明な状態に戻るということです。

 

 

 【今回のまとめ】

  • あらゆる出来事は本来ニュートラルで、それに「意味」を与えているのは自分自身。
  • 自分自身の観念や思い込みに気づくと出来事はニュートラルに戻る。

 


  

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