「誰かが望む自分」になる必要はない。ただ自分であればいい。
僕は長年マーケティングの仕事に携わってきたんだけど、マーケティング界隈では、「良いものをつくっただけでは売れない」ということがよく言われる。
つまり、どれだけ良いものをつくっても、ニーズがなければ売れないし、仮にニーズがあったとしても、それを効率よく売るための仕組みがなければモノは売れないということだ。
だから、まずはニーズを把握した上で商品開発を行い、マーケットにふさわしいやり方で適切なマーケティング戦略を組み立てましょう、ということになる。
確かに、モノやサービスを売るためには、買い手のニーズや意識を把握して、それに合わせる必要はあるだろうと思う。
つまり、モノを売りたいのであれば、それをヒト(買い手)に合わせる必要があるということだ。
これと同じ論理で、就職活動について語ったり、人間関係について話したりする人を見かけることがある。
簡単に言うと、「相手が望むような自分」にならなきゃいけないというようなこと。
でも僕は、マーケティングというのはあくまでもモノやサービスに関することであって、僕ら人間に当てはめちゃダメなんじゃないかと思ってる。
自分自身の成功や幸せを求めて、人に合わせちゃダメだと思うの。
つまり、「相手が望むような自分になろうとする」ことは、とっても危険だということ。
自分を殺して人に合わせることを繰り返していると、いつの間にか自分を見失ってしまうから。
そして、自分は誰で、本当は何をしたいのかわからないまま人生を終えることになる。
この前ね、道端を歩いてるときに、道路わきのアスファルトの隙間に咲いてるスミレを見つけた。
僕はスミレが好きなので、思わず近寄って眺めてしまった。
だけど、当然スミレが僕に声をかけてきたわけではなく、何か強烈なアピールをしてきたわけでもない。
スミレはスミレとして、淡々と道端に咲いていただけだ。
スミレ以上の何かになろうなんて考えもせず、ただスミレとしての自分を表現してただけ。
そして、スミレが好きな僕が、ひっそりと咲いてるスミレを見つけて、嬉しくなって近づいただけだ。
でも、もしスミレがスミレ以上の何かになろうとしてたとしたら、どうだろう。
たとえば、「自分はヒマワリみたいになりたい!」と考えてヒマワリっぽいスミレとして咲いていたら。
おそらく、スミレ好きな僕はその花を好きにはならないと思う。
逆に、ヒマワリが好きな人からも「変な花だな」と思って敬遠されるに違いない。
もしかしたら、無駄に目立ち過ぎたことで乱暴な若者の目に留まり、引っこ抜かれちゃうかもしれない。
結局、”ヒマワリっぽいスミレ“ は、スミレとしてではなく、ヒマワリとしてでもなく、なんだかよくわからない中途半端な存在としてその短い一生を終えることになるんだろうと思う。
自分らしく自分の持ち場で楽しく咲いていれば、自分のことを大切にしてくれる人や自分を必要としてくれる人は、いずれやってくる。
ベストなタイミングでやってくる。
逆に、自分以外の何かになろうとしたら、本来の自分が望まない人や状況を引き寄せることになりかねない。
だから、自分以外の自分になろうとする必要なんて、まったくない。
僕ら人間は、商品でもサービスでもないんだから、他人に合わせて自分を変形させたり、無理にアピールする必要はない。
「誰かが望む自分」になんてなっちゃダメだ。
道端に楚々と咲くスミレのように、ただ淡々と自分自身であればいい。
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