仕事人間に捧げる 料理のススメ。
一番下の子が保育園に上がるまで妻が長い育休をとっていて、職場復帰したのが4年くらい前だったかな。
それからは僕が夕食当番ということになったので、この4年間くらい、平日は毎日料理をしてる。
もともと料理するのはキライじゃないので学生時代から自炊してたけど、毎日献立を考えて買い物に行って、つくったものを誰かに食べてもらうようになったのは最近のことだ。
料理をしない人は、料理って面倒くさそうとか、難しそうとか、仕事が忙しくてそんな暇はないとか思ってるかもしれない。
でも、今日はそんな人こそ、たまには料理してみるといいかもよーっていう話をしたい。
最初に結論から言うと、僕が感じる料理の効能というか、料理をオススメする大きな理由は大体こんな感じかな。
- クリエイティブである
- 気軽にチャレンジできる
- すぐに達成感を得られる
- 「自然」と触れ合える
- ストレス解消できる
まず1番目の「クリエイティブ」っていうのは、栄養バランスを考えて献立てを組むことはもちろん、素材を掛け合わせて一つの料理をつくるっていうのはかなりクリエイティブな行為だと思うんだよね。
器ひとつ、盛り付け方ひとつで美味しさも変わるものだし。
僕はほぼ毎日、職場のデスクでひたすらパソコンとにらめっこして事務作業をしているから、職人さんのようにモノづくりをする仕事に憧れがあるんだけど、それができない欲求不満を料理で解消できてるんだよね。
2番目の「気軽にチャレンジできる」っていうのはアレだね、やっぱり仕事ではなかなか気軽にチャレンジするっていうのが難しいんだよね。
でも、料理なら、ちょっとマズイものを作ってしまっても家族からクレームが出る程度のことだから、失敗を恐れることなくいろいろ挑戦できるよね。
これとこれを合わせたらどんな味になるんだろう?これの代わりにこれを入れたらどうなるんだろう?なんて考えながら、気軽にドキドキ感を味わうことができる。
3番目の「達成感」というのは、今の時代の仕事って何かの大きな流れの中の一部分だけを扱うことが多いから、最初から最後までのプロセスに自分が関わって、お客さんの笑顔まで見れるという仕事は多くないと思うんだよね。
それが料理だと、素材選び、仕入れ、加工、調理、盛り付け、配膳、そして一緒に食べて家族の笑顔を見るところまですべて、しかも短時間に味わうことができる。
僕のようなオフィスワーカーはこういった達成感を仕事で味わうことが難しいと思うから、これができるだけでもすごくいいと思う。
4番目の「自然と触れ合える」というのはね。
僕は都市部のマンションに住んでるから、もし料理をしていなかったら、朝起きて仕事に行って帰ってから寝るまで、人工物にしか触れずに一日が終わってしまうことになる。
ちょっと想像してほしいんだけど、あなたは朝起きてまず最初に何を触る?その次は?その次は…?
おそらく、プラスチック、金属、布、陶磁器、ゴム、紙、ガラス、とかがほとんどじゃないかな。
もしかすると、人工物じゃないものって「水」くらいかもしれない。
でも、料理をすると、野菜、肉、魚といった自然のものに触れることができるんだよね。
これって意識してる人は少ないと思うけど、生物としての僕らの身体の深いところに影響している気がする。
5番目の「ストレス解消」だけど、包丁でサクッサクッと野菜を切ったりするのは、何でもないことのようだけど、意識してやると意外と気持ちいいんだよね。
それに、料理をすると切るだけじゃなくて、つぶす、こねる、たたく、まぜるといった工程もあって、これも日常生活ではなかなかやらない行為で、無心にやってると結構ストレス解消になるよ。
あと、自分が食べたいものを食べられるっていうのもいいよね。
今日はカレーライスが食べたい気分だなぁって考えながら帰宅したら、テーブルに並んでいたのはサバの塩焼きだった…というようなストレスもなくなるし。(笑)
こんなふうに料理って、ただ食べて美味しいとかマズイとか、つくるのが面倒とかいうだけじゃなくて、プロセスを意識すると結構楽しめたり、癒されたり、ワクワクしたりスッキリしたりできるので、仕事だけで一日が終わってしまってるような人ほど、週に1回だけでも料理をしてみるといいんじゃないかな。
奥さんが料理をつくってくれてるから料理は全くしないという男性も、レタスをちぎって缶入りのコーンを混ぜるだけの簡単サラダをつくってみるとか、それに慣れたらサラダだけは毎日自分が担当するとかしてみると、いろんな意味で良い効果があるかもしれないよ。
選択基準を決めておく。
昨日は2時間くらいかけて、「神」についての僕なりの解釈・考え方を書いたんだけど、なぜか下書きが消えてしまっていて、ちょっとガッカリしてました。(笑)
ただ、こういうトラブルがあっても最近は、「きっと、今はそれをやらないほうがいいということなんだろうなぁ」って割り切って考えるようにしてる(シンクロニシティに任せてる)ので、まあ、そういうことなんだろうなと。
ということで今日は全然別のテーマで、いろいろなことを判断するときの僕なりの選択基準について書こうと思う。
僕たちの日々の暮らしは、小さなことから大きなことまで常に、毎瞬毎瞬、選択の連続だよね。
今このブログを書いているのだって、次にどの文字を打ち込むかを判断しながら書いてるわけだし、ここで書くことをいったんやめてコーヒーでも飲もうかな?とか、行き詰まったからちょっと別の作業をしようかなぁ、なんていう選択もあるわけで、その選択肢は無数にある。
もちろん、多くの場合は意識せずに選択・判断してると思うけど。
でも、時々、意識して何かを選択しなきゃいけないこともあるよね。
それがプライベートなことであっても、ビジネスであっても。
例えば、どの店に買い物に行こうか?というような比較的小さなことから、新規事業のアイデアをどれに絞り込むか?とか、転職するかしないか? 結婚するかしないか? そろそろ家を買うか? 子供をつくるかどうか? といった大きな判断までね。
そういう意識的な判断が必要になる場合、僕はできるだけその本質を考えるようにしてる。
選ぼうとしているものが本質に近いところにあるのか、それとも本質とは程遠いところにあるものなのか、ということを。
で、本質を考えるための僕の基準はこの3つなんだよね。
- シンプルか?
- 自由度が高いか?
- 心地よいか?
まず、1番目の「シンプルか?」というのは、以前書いた僕のライフクレドの中にもあるんだけど、どんなに複雑に見えることであっても、その本質は常にシンプルだと思ってるんだよね。
だから、できるだけシンプルなほう、スッキリするほうを選ぶようにしてる。
仕事上で何かプランを考えたりシステムを導入したりする場合はもちろんシンプルなほうを選ぶし、プライベートの買い物なんかでも、できるだけシンプルなものを選択してる。
2番目の「自由度が高いか?」についてだけど、僕にとって一番大事な価値観は「自由」なんだよね。
だから僕は、自分の自由が奪われるようなことや、自分の可能性を制限するようなものをできるだけ選択しないようにしてる。
たとえば、転職する場合の基準は、仕事内容を除けば、会社の規模や収入よりも「自由度」が一番重要な点だし、何かのサービスを選ぶときも選択肢が豊富にあったり制約が少ないほうを選ぶ。
付き合う相手に関しても、僕をコントロールしようとしてくる人とは距離を置くようにしてる。
3番目の「心地よいか?」というのは、選択するものに心地よさを感じられるかどうかということ。
何かを選ぶ場合、より心地よさを感じられるものを採用するということで、これは感覚的な部分が大きいかもしれない。
例えば誰かに飲み会に誘われたとしても、気乗りがしなければ遠慮せず断るし、どちらの商品を買おうか迷っているときは、より心地よさを感じられるものを選ぶ。
僕たちは、日常生活の多くの判断を無意識にやっているけど、意識的に判断する場合であっても何となく決めていることが多いと思う。
でも、こんなふうにして、あらかじめ自分で判断基準を決めておくと無駄な迷いがなくなるし、雰囲気に流されて何となく決めちゃった…ということがなくなるから後悔することも少なくなると思う。
僕の場合はその基準が「シンプル」「自由」「心地よさ」だけど、人それぞれ大事にしたい価値観は違うと思うから、一度考えてみると面白いかもしれないね。
「死生観」を持っていますか?
前回の記事の最後に、人生の目的地を決めるには「死生観」が大事なんじゃないかということを書いた。
死生観というのは、簡単に言えば、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことか、に対する自分なりの見解のことだ。
もう少し具体的に言えば、僕らは生まれる前はどこにいて、どんなふうに生きて、そして死んだらどうなるのか?ということ。
宗教を信じて生きている人は、きっとその宗教の教義に基づく死生観に沿って生きていると思う。
ただ、多くの日本人は、何か一つの宗教的な価値観の中で生きているというよりも、なんとなーく仏教的なとか、なんとなーくキリスト教的なとか、なんとなーく死んだら終わりとか思って生きているんじゃないかと思う。
だから、人は死んだらどうなると思う?と聞くと、「死んだらまた何かに生まれ変わるんじゃない?」とか、「俺は悪いことばっかりして生きてきたから地獄行きかな? ガハハハハ(笑)」とか、「死んだ後に神様に裁かれて、その先が決まるんじゃない?」とか、「いやいや、死んだらもう終わり。無になるんだよ」とか、なんとなく漠然と思ってる人が多いんじゃないかな。
年齢が若くて平穏に過ごせているうちはそれでも何の問題もないからね。
でも、何か大きな問題にぶつかったり、大切な人の死に直面したり、自分自身が大病を患ったり、歳をとって老い先短くなってきたりすると、必然的に「死」と向き合わざるを得なくなる。
こればかりは、どんな人であってもいずれ考えなければいけないときがやってくる。
みなさんはどんな「死生観」を持っているだろうか?
僕は、10代のころは、ただ漠然と仏教的な死生観の中で生きてきたように思う。
死んだら閻魔大王のところで裁かれて、生きていたときの行いに応じて、地獄に行くことになったり、いわゆる輪廻転生したりという感じのやつだ。
特に深く考えていたわけではなくて、ただ何となくそんな感じで思っていたと思う。
それが、大学に入って哲学書とかを読み始めてからは、死んだらどうなるのか全くわからなくなって、なんともいえない不安感や虚しさを抱えて生きていた気がする。
そんな僕がちゃんと死について考えるようになったのは、「僕のスピリチュアル遍歴①」で書いたように、10年ほど前に母が亡くなってからだ。
母の死後にいろいろな本を読み漁る中で、飯田史彦氏の「決定版・生きがいの創造」という書籍に出会い、死んで肉体がなくなっても魂は永遠であるという考え方が、当時の僕にはしっくりきた。
ただ、そうはいっても、それだけでは納得できないことも多くて、自分自身の「死生観」というほどのものは確立できていなかった。
やはり、「死」だけを単体で考えていても死の意味はわからないんじゃないかと思う。
人間とは何か?生きるとはどういうことか?宇宙はどうなっているのか?神は存在するのか?といった、死の周縁にあることも一緒に考えないと、納得できるような答えは得られないんじゃないかな。
少なくとも僕の場合はそうだった。
そして、そういう幅広い疑問に対してたくさんのヒントを与えてくれたのが、僕の場合はバシャールという宇宙人だった。
バシャールも飯田史彦氏と同じように魂は永遠であると言っているんだけど、その背後にある世界観、宇宙観が全く違った。
今回も長文になってしまったので、次回以降また少しずつ僕の死生観や宇宙観について書いていきたいと思う。
人生の目的地
前回までの記事(僕のスピリチュアル遍歴)の中で、自分が何のために生きているのか、どうやって生きていけばいいのかがわからずに悩み続けたということを書いたけれど、人生の意味や目的がわからないことが「生きづらさ」の原因になっているという人は僕だけではないと思う。
一見、人がうらやむような暮らしをしている人であっても、人生の中では、辛いことや悲しいこと、言い知れぬ虚しさを感じることがあるだろうし、絶望感を味わわされることだってあると思う。
そんなときに、自分が何のために生きているのか、つまり生きる目的が明確になっていないと、人生の暗闇に迷い込んで心を病んだり、場合によっては自ら死を選んだりといったこともあるかもしれない。
かく言う僕も20代の頃は、「いっそのこと死んでしまえば楽になるのにと」思ったことは、一度や二度ではない。
それこそ、新卒で超ブラック企業に勤めていたときは毎日のように「死」を考えていた。
だけど、もし当時の僕が自分なりの「生きることの意味」を明確にわかっていれば、自死について考えることはなかっただろうと思う。
僕たちは、物心ついたときには自分で選択した覚えのない環境に置かれ、誰かに(親である場合が多いと思うけど)世話をしてもらいながら、成長していく。
当然ながらその時点では、自分がなぜ生まれ、なぜここにいて、どこに向かっているのか、わからないことばかりだ。
言ってみれば、何も告げられないままに一人で小舟に乗せられて、東京湾にポーンと放り出されたようなものだ。
目的地がわからないから、どこに向かっていいのかわからない。
海の向こうにどんな世界が広がっているのかもわからない。
ある人は、沿岸に流れ着いて上陸するかもしれないし、湾の中をぐるぐる回り続ける人もいるかもしれないし、風に流されて湾の外に出ていく人もいるかもしれない。
海流に流されて東北や北海道に流れ着く人もいれば、そのままアラスカのほうまで流される人、太平洋の真ん中を漂う人もいるかもしれない。
でも、もし目的地がわかっていれば、そんなことにはならないと思う。
「僕はニューヨークに行くんだ!」ということが明確にわかっていれば、そのまま太平洋を横断してアメリカ西海岸まで行って、あとは陸路で東海岸を目指そう、とか、東南アジアからインド、中東、ヨーロッパを経由してアメリカ東海岸まで行こうとか、はたまた成田空港から飛行機で直接ニューヨークに向かおうとか、自分の意思でいろいろなルートを選択しながら進むことができる。
人生だってきっと同じことで、「何のために生きているのか」という人生の目的がわかっていれば、少々道から外れたって、思うようにいかないことがあったって、軌道修正しながら前に進めるはずだ。
人生という長いようで短いようで長い道のりにおいて、どこに向かっているのかわからない、というのが一番辛いことだと僕は思う。
歳をとって残された時間が短くなってからそれに気づくのはさらにキツイことなんじゃないかな。
もし早く気づくことができれば、自分の意思で寄り道しながら道中を楽しむこともできるわけなので、人生のできるだけ早い時期に目的地を見つけられるといいんだろうなぁと思う。
そして、そのためには自分にとっての「死生観」というのがポイントになると僕は考えているんだけど、それについてはまた改めて書こうと思う。
■追記
僕自身の人生の目的と生きていく上での指針はこの記事に書きました。
僕のスピリチュアル遍歴 ③
(前回「僕のスピリチュアル遍歴②」からの続きです)
バシャールとの出会いで、「この地球に生まれた喜びを五感で味わい尽くす」という人生の目的を見つけることができた僕は、迷いがなくなり、生きることがすごく楽になった。
出世や肩書き、社会的成功などは僕の人生の目的とは関係のないことなので、そこは完全に切り捨てて、気が進まないままやっていたいろんな社会活動とか地域活動、望まない人間関係も「断捨離」した。
仕事は9時から17時まで、自分のやりたくないことはできる限りしないというスタンスに変えた。
給料はかなり減ったし、職場での肩書きもなくなったけど、その代わり仕事上のストレスは減り、逆に家族と過ごす時間や自分が心地良くいられる時間が増えたことで、幸福度は格段に上がった。
そして、いろいろなことが驚くほどスームズに運ぶようになった。
もちろん、これからの人生でも一筋縄ではいかないことが起こるかもしれないけど、何かあったとしても立ち戻るところ(目的・指針)が明確にあるので、大きく道を踏み外すことはないと思う。
最後に、4年前につくったクレドを紹介して、ひとまず僕のスピリチュアル遍歴シリーズを終えたい。
このクレドは今も僕の毎日を支えてくれているし、これからもそうだと思う。
LIFEクレド -私の信条-
私は、最高のエンターテインメントであるたった一度のこの人生を、楽しみ、味わうために生きている。
これは私の人生に対する私自身の責任だから、ほかの人がどう思うかは関係ない。
誰かの顔色を伺いながら生きるのではなく、心地良さやワクワクする気持ちを最優先にして行動したい。
思考ではなく感覚にいつも敏感でありたい。
自分が求めるものや理想像は明確にしておきたい。
本質は常にシンプル、というのは多分本当だ。
過度なこだわりや依存は、心地良さや楽しさの対極にあるものだということを忘れずにいたい。
捨てること、やめること、離れることにネガティブなイメージを持つ必要はない。
「こうでなければいけないこと」「こうしなければいけないこと」など何ひとつなく、絶対的な正義も悪もない。
いつも自然体で、曖昧さを許容できる自分でありたい。
人知を超えた世界や存在を意識し、大自然や宇宙との一体感を感じながら暮らしたい。
未来は一つではなく、無限の可能性の中から一瞬一瞬、自分自身で選択しているという感覚を大事にしたい。
身の回りの出来事は起こるべくして起きている。
たとえどんなに辛いことでも、すべては素晴らしい未来へと至るきっかけだということを忘れないようにしたい。
今ここにある「幸せ」と「有り難さ」に気づき、感謝の気持ちが自然に湧いてくる自分でありたい。
余分な力を抜いて背筋を伸ばし、微笑みと優しい眼差しを絶やさぬようにしたい。
そして、最高のエンターテインメントである人生を楽しみ味わうという意味において、自分史上最高の自分を毎日更新し続けたい。
僕のスピリチュアル遍歴 ②
(前回「僕のスピリチュアル遍歴①」からの続きです)
母の死をきっかけに飯田史彦氏の「生きがいの創造」に出会い、「死」というものの位置づけや意味が自分の中でわかり始めたものの、じゃあ「人間とは何か?」「生命とは何か?」「宇宙とは何か?」「地球とは何か?」「その中で僕はどうやって生きていけばいいのか?」ということに対する答えはまだ見つけられずにいた。
そんなときに出会ったのが、バシャールだった。
どんな経緯で出会ったのかははっきり思い出せないんだけど、おそらくAmazonのリコメンドだったと思う。
もともと、子どものときから僕は超常現象的なことには関心があって、中学生くらいの頃に関口宏の「ワンダーゾーン」を毎週楽しみに見ていたことを思い出す。
だけど基本的には、小学生のころから科学雑誌「Newton」や「ナショナルジオグラフィック」を読んでたくらいの左脳系人間なので、心霊現象とか陰謀論のようなオカルト色が強いものは信じられなくて、そういうのは単なるエンターテインメントの一つとして受け止めていた。
ただ、番組の中で、ユングやフロイトの集合的無意識とか、古代文明や宇宙の謎なんかを扱ったテーマはすごく興味深くて、将来は心理学や考古学、地学・天文学なんかの研究者になりたいと思っていたことは覚えている。
そんな僕なので、いわゆる銀色の肌でアーモンド型の目をした宇宙人の存在などは、全くとは言わないけれど、ほとんど信じていなかった。
だから、Amazonからのオススメでバシャールの書籍をなぜ買おうと思ったのかはよくわからない。
バシャールというのは、地球から遠く離れた「エササニ」という星に住む地球外存在で、ダリル・アンカというアメリカ人のチャネラーを通して、1970年代からずっと地球人にメッセージを届けてくれている。
宇宙人からのメッセージなんて信じられるわけがない、という思いはその当時の僕も当然持っていて、だから眉に唾をつけながら本を読み始めた。
でも、実際に読み進めてみると、語っているのが宇宙人だということを忘れてしまうくらい面白い内容で、僕が子供のころから思い悩んできたことのヒントがそこらじゅうに散りばめられていた。
今でこそ科学的なテーマとして取り上げられているパラレルワールド、時間と空間、生命、死、多次元構造、波動や量子論などについての概念を、1970年代から語っていたということも驚愕だった。
そして何より、そういった科学的なことだけでなく、感情や観念、人間関係やコミュニケーション、お金、仕事…といった、人の生き方に関する考え方も、すべてが理路整然と語られていて、僕は直感的に「これは本物だ」と感じた。
「誰が語っているかよりも、何を語っているか」ということで判断できたのは、もともと僕が左脳系人間だということがポジティブに作用したんだろうと思う。
それと、もともと持っていた科学的な知識とバシャールが教えてくれたことがうまくリンクしたことも良かったと思う。
それからの僕はただひたすらバシャール関連の書籍を読みまくって、宇宙の仕組みから人間が存在する意味まで、長年の疑問を解消することができた。
しかも、「僕はどうやって生きていけばいいのか?」という問題に対する自分なりの答えも見つけることができた。
そして僕は、バシャールが教えてくれたことを反芻する中で、「この地球に生まれた喜びを五感で味わい尽くす」ということを僕自身の人生の目的にした。
(次回に続く)
僕のスピリチュアル遍歴 ①
僕は、父方が仏教の寺、母方は神社、母個人はクリスチャンという、ちょっと複雑な家庭で育った。
それが良い方向に働く家庭もあるのかもしれないけど、我が家の場合はネガティブな要因でしかなかった。
幼少期からずっと、家庭内でも親戚間でも常にプチ宗教戦争が行われていて、母が親戚中から疎外され叩かれて相当苦しみ悩んでいたのは、子どもながらにわかっていた。
宗教に関する両親の諍いで古い記憶は、3歳くらいの頃からある。
そういえば一時期、それが原因で母はアルコールに溺れていたこともあった。
僕が小学6年の時に学校から帰ると、テーブルの上に空の一升瓶がドンと置かれていて、その傍らで真っ赤な顔をして完全に目の据わった母が、ろれつの回らない口調で意味不明なことをつぶやいていたのが忘れられない。
そんなこんなで、僕は子どものころから宗教が大嫌いだった。
宗教こそが不幸の元凶だと思っていた。(今も思ってるけど。笑)
そして何より、「あれをしちゃダメだ」「これをしなきゃいけない」と何かにつけて僕を押さえつけようとする「神」や「仏」が大嫌いだった。
その一方で、「自分は何のために生きているのか」「どうやって生きていけばいいのか」という疑問は常にあって、いつもその答えを探し求めていた。
10~20代のころは、哲学や文学、歴史、物理学、心理学なんかにそれを求めていた。
20代半ばには超ブラック企業に勤めていて五里霧中の混乱状態だったから、大嫌いなはずの宗教にその答えを求めようとしたことすらあった。
30代になってからは、デール・カーネギーやスティーブン・コーヴィーのような有名どころからそうでないものまで、様々な自己啓発書を読み漁って少し気がまぎれた。
でも、結局は僕が求めていることを解決できるものではなくて、納得できる答えはいつまで経っても見つけられないままだった。
今考えてみれば、僕は当時、漠然と「生き方」を探していたのだけれど、本当は探すものをもっと明確にしておかなきゃいけなかったなぁと思う。
結局、僕が求めていたのは、「人間」とは何か? 「生命」とは何か? 「死」とは何か? 「宇宙」とは何か? 「地球」とは何か? ということを明確にした上での、じゃあ「自分はどう生きるべきか?」ということだったんだよね。
それが曖昧なままだったから、深い霧の中で漠然と「生き方」を探し続けた。
そんな僕に訪れた大きな転機が、今から10年ほど前の母の死だった。
30代になるころから祖父母をはじめとして親戚が何人も亡くなって、毎年必ず身近な人の葬式に出るような状態だったから、「死」というものに触れる機会は多かったんだけど、当然ながら母の死は特別だった。
僕にとっては、人生で最悪の出来事と言っていいくらいの悲しく辛いことで、気持ちが晴れない状態が1年以上続いていたと思う。
ただ、その時期に不思議なことがたくさん起きたんだよね。
悲しみに沈んでる僕に向かって、母が「死んで肉体はなくなったけど、いつもそばにいるよ」って教えてくれてるんじゃないか?と思えるような、普通では考えられないような不思議な体験をたくさんした。
それで人の死というものに対して強烈な関心が湧いてきた僕は、またいろいろな書籍を読み漁り始めた。
そんなときに出会ったのが、当時、福島大学の教授をしていた飯田史彦氏の「完全版・生きがいの創造」という本で、人の生まれ変わりをテーマにした、相当スピリチュアルな内容だった。
似たようなテーマで20歳前後に読んだ立花隆氏の「臨死体験」のときにはそんな衝撃は受けなかったんだけど、それは多分、当時の僕にとって死が身近なものではなかったからだと思う。
この「生きがいの創造」が僕にとって大きな意味を持ったのは、「肉体は滅んでも魂は生き続ける」ということに気づけたからだと思う。
つまり、僕の今のこの人生が終わって死を迎えたとしても、「無」になるわけではないということに確信が持てたんだよね。
母の死後に起きたいろいろ不思議なことも腑に落ちたというか。
それによって、ようやく僕は母の死という悲しみを癒し、乗り越えることができた。
ただ、その時点ではまだ「死」というものの位置づけが少し見えてきただけで、「どう生きていけばいいのか?」という問いに対する答えはまだ見つけられずにいた。
(次回に続く)
商店街の「変な服」を買う人は必ずいる。
このブログを本格的に書き始めてからまだ2カ月も経ってないのに、昨日初めてコメントをいただいて、すごく嬉しかった。
(あ!いつもスターをくださる方もとってもありがたいです。励みになります。)
僕が書いている記事の多くはスピリチュアル的な考え方が前提になってるけど、こういう話って日常生活で人に話すことはほとんどないから、誰かに共感してもらう機会もないんだよね。
むしろ、宇宙人とか波動とか次元上昇とか、そういう話をすると相手を困らせたり引かれちゃったりすることのほうが多いしね。(笑)
でも、どんな考え方であっても、どんな価値観であっても、世界中のどこかには自分に共感してくれる人が必ずいるんだよね。
その数が多いか少ないかは別として。
そういうことを考えるときに僕がいつも思い出すのが、商店街で売ってる「変な服」。
商店街で僕が服を買う機会はほぼゼロなんだけど、たまーに商店街の小さな洋服屋さんの前を通りかかると、「こんな服いったい誰が買うの?」と思うようなデザインの服が売られてたりするんだよね。(笑)
僕は好みがはっきりしてるほうだから特に「なんじゃこりゃ~!」って思うような服に出会うことが多いのかもしれないけど。
でも、そういう服も、単に僕が「変だ」と思ってるだけであって、それを「変だ」と思わない人はいくらでもいるんだよね。
少なくともその「変な」服をデザインした人、その「変な」服を仕入れてきた人、実際にその「変な」服を買うお客さんは、それが変だとは思っていないはずだから。
つまり、価値観なんて人それぞれで、こんな考え方は誰も共感してくれないだろうなぁと思うことであっても、世界中のどこかには同じような考え方の人が必ずいるんだよね。
極端な話で言うと、誰もが嫌悪するであろう凶悪な殺人犯をカリスマとして崇める人たちでさえ一定数いるわけだから。
今のところ、このブログを読んでくださるのはSNSなどで何らかの情報発信をしている方がほとんどだと思うけど、もし何も情報発信をしていない人がいたら、とりあえず自分の考えを発信してみるといいと思う。
最初は誰も読んでくれないし、当然ながら誰も反応してくれないけど、世界のどこかにあなたと同じような気持ちで暮らしてる人は必ずいて、インターネット上で発信し続けていれば、その情報はいつか必ずその人たちのもとに届く。
価値観の近い人たちとの交流は、自分という存在の肯定につながるから、今孤独を感じている人ほど、ネット上でどんどん情報発信してみたらいいんじゃないかな。
ただし、当たり障りのない内容ではなくて、心から湧き出てくる言葉をね。
ということで僕も、これからも遠慮せずにますます尖ったことを書いていこうと思う。(笑)
「瞑想」よりパワフルなツール
以前は、瞑想というといかがわしい目で見られていたときもあったよね。
でも、GoogleやAppleのような米国の大企業が「マインドフルネス」を取り入れ始めてからは、かなり一般化してきたような気がする。
ちなみに僕の生家はお寺で、僧侶だった祖父からは「ほんの少しの時間でもいいから毎日瞑想するようにしなさい」って言われてたので、もともと抵抗感とか偏見は全くなかった。
だから、若いころから瞑想には興味があったし、自分でも時々やっているんだけど、正直言っていまだにうまくできてる気がしないんだよね。
まあ、そこまで本気でやってるわけでもないので、仕方ないけんだど。(笑)
なので、僕としては、いわゆる「瞑想」をしているときよりも、何か一つのことに集中してるときのほうが「瞑想状態」に近いという感覚がある。
そもそも瞑想とは何かというと、“思考を過去や未来から切り離して、意識を「今ここ」に集中すること”だと僕は思ってる。
なので、背筋を伸ばして座禅を組んで微動だにせずに座り続ける…みたいな、いわゆる「瞑想」っぽいことをしなくても、今ここに集中することができれば、それは瞑想と言えると思うんだよね。
実際に、立つ瞑想とか歩く瞑想もあるくらいだし、寝転がった姿勢での瞑想もあるわけだから、形態は何でもいいんだよね。
で、僕は何年か前から、ただ「感謝する」ということだけでも瞑想に似た効果があるよなーって思ってるの。
実は僕は、十年くらい前に子どもが生まれるまでは、何かに対して心から感謝するっていうことをしたことがなかったんだよね。
もちろん口では「ありがとう」って言うけど、それは儀礼とか挨拶代わりに言ってただけで、心の底からの感謝というのがどういうものか、想像したこともなかった。
そんな僕だけど、子どもが生まれてからは感じ方がガラッと変わってしまって、なんというか、もう、子どもが毎日健康で生きてくれているだけで心の底から「ありがたい」って思えるし、子どもの笑顔を見てるだけで手を合わせたくなるくらい、心からの感謝の気持ちが湧いてくるようになった。
なので、毎晩寝る前に布団に入って手を合わせて、ただ子どもや家族の顔を思い浮かべて「ありがとうございます」「ありがとうございます」って心の中で唱えてるんだけど、そうやってると、眼球が頭の奥の方に吸い込まれるような、ふわっとした感覚になるんだよね。
よし!瞑想するぞ!と思って座禅を組むよりも、僕にとってはそっちのほうがよほど「瞑想」的な感覚があって。
だから、何か嬉しいことや楽しいことがあったときには、普段の生活の中でも、軽く手を合わせて目を閉じて、心の底から「ありがとうございます」って心の中で言うようにしてるの。
そうすると、ものすごく心地よい状態になって、クスリでもやってるんじゃないか?っていうくらいフワフワしてくることがある。(笑)
てことで、最近はちゃんと座って瞑想することは少なくなったんだけど、でもこの「感謝の瞑想」の効果はかなり実感してるんだよね。
そんなときに、先日たまたま、僕の大好きな宇宙人・バシャールが、「感謝は瞑想以上にパワフルなツールです」と言ってるのを知って、めちゃくちゃ驚いた。
やっぱりそうだったのか!感謝するっていうだけで瞑想の効果があるのかっ!俺は間違ってなかったぞー!って。(笑)
ちなみにバシャールが言うには、そもそも瞑想というのは自分をニュートラルな状態にすることだけど、感謝するとニュートラルな意識状態になるだけじゃなくて、そこからさらに高いレベルに波動を上げることができるんだよ、って。
だから、瞑想以上にパワフルなツールなんだよ、って言ってる。
それにしても、瞑想からの、感謝からの、宇宙人って…。(笑)
なんかもう胡散臭さが満載すぎて荷崩れしそうなぐらいの内容だけど、この「感謝の瞑想」は凄いパワーを持ってると僕は信じてる。
実際、「感謝の瞑想」をするようになってから、僕の人生の幸福度は何倍もアップしてるし。
ちなみにちなみに、僕はもともと宗教が苦手なので、神様とか仏様とかは信じてないよ。
だから、僕がこの「感謝の瞑想」をやってるときは、別に神や仏に対して感謝してるわけじゃなくて、ただただ今の自分を取り巻く環境とか、自分の大切な人たちに感謝してるだけなの。
もちろん、仏壇も祭壇も要らないし、どこかの方角を向く必要もないし、祈りの言葉とかも不要。
早ければ5秒で終わる。
なので、やろうと思えば今すぐにでも誰にでもできることだよ。
今ここにある、心から「有り難い」と思えること(心から感謝できるなら、水でも空気でもボールペンでも自分の指でも髪の毛でも、対象は何でもいい)を見つけて「感謝」するだけのスーパーツール。
よかったら、ぜひお試しあれ~。
【オススメの一曲】ジョン・バトラーの「Ocean」
なんだか最近同じような内容の記事ばかりになってる気がするので、たまにはちょっと毛色を変えて、僕の好きな曲を紹介するね。
何か嫌なことがあったり、ちょっと行き詰まったりしたときに必ず聞く曲のうちの一つだよ。
この「Ocean」っていう曲は、たしか5~6年前に四角大輔さんから紹介されて知ったんだけど、初めて聞いたときに鳥肌が止まらなかったんだよね。
ギターのことには全然詳しくないド素人の僕にも、このテクニックが普通じゃないということはわかる。
ただ、ギター1本だけでこんな曲が弾けるなんて凄い…というだけじゃなくて、目をつぶって聞いていると、20年くらい前に行って感動したハワイの真っ青な海を思い出すんだよね。
大海原の優しさも激しさも、美しさも切なさも、喜びも悲しみも、「海」のすべてが詰まっているような気がする。
もしよかったら、ぜひ聞いてみてね!
OCEAN - John Butler - 2012 Studio Version
『Ocean』は僕の人生で大事な要素の一つなんだ。僕のDNAの一部だ。自分が言葉で説明できないことは全て表現してくれているような気がする。命、喪失、愛、魂。自分が進化すれば、『Ocean』も進化する。一番最初にレコーディングしたのが路上ライヴで売っていた最初のアルバム/カセット『Searching For Heritage』で、その次にはセルフ・タイトルのスタジオ・アルバムで発表したんだ。もう12年前の話だね。ウェブ上では今までかれこれ色んな形で合計2500万回以上見られているんだ。ほとんどがライヴ・テイクで、それはMusix Maxセッションから、今まで出演させてもらった世界中のフェスの映像だったりする。
ここで改めて皆のサポートに感謝の気持ちを申し上げたい。自分にとってこれ以上なく大切なことだよ。その恩返しとして、10何年ぶりに再録音したスタジオ・バージョンの『Ocean』を皆にフリー・ダウンロードとしてプレゼントしたい。皆の応援で作ることができた、ここ西オーストラリアのフリーマントルにある自分の大好きなスタジオ、ザ・コンパウンドで録ったんだ。
これからまだまだ皆に新しい曲やアルバムを届けるのが楽しみだし、この素晴らしい旅を皆と分かち合うのが本当に待ちきれないよ! 皆、ありがとう!!」
ジョン・バトラー
https://www.barks.jp/news/?id=1000082175
人生は「くじ引き」だ!
こんな条件の「くじ引き」があったとするね。
- 箱の中に無数のくじが入っている。
- 当たりとハズレの割合は不明。
- 当たりの景品は多種多様で、超豪華なものもある。
- 無料で何度でも好きなだけ引ける。
- ただし、1枚ずつしか引けない。
あなたはどうするだろう?
僕なら、ただひたすら、満足できる景品が当たるまで延々とくじを引き続ける。(笑)
じゃあ、これを人生に置き換えてみたらどうかな。
箱が「人生」、当たりくじが「成功」、ハズレくじが「失敗」って。
- 人生という箱の中に無数のくじが入っている。
- くじには「成功」か「失敗」のどちらかの文字が書いてある。
- 「成功」と「失敗」の割合は不明。
- 「成功」の結果は多種多様で、超豪華なリターンもある。
- 無料で何度でも好きなだけ引ける。
- ただし、1枚ずつしか引けない。
回りくどい言い方になっちゃったけど、何が言いたいかというとね。
ハズレくじを引いたって別に恥ずかしいことでも何でもないんだから、失敗を恐れずにどんどんくじを引けばいい(チャレンジしたらいい)んじゃない?ってことなんだよね。
あれこれ悩んでないで、気になるならとりあえずやってみる!直観的にワクワクするなら飛び込んでみる!
もしダメだったらまた別のことをやればいいだけなんだから。
くじは箱の中にいくらでも入ってるわけだし。
ということで、今日はちょっとまとまりのない内容になっちゃったけど、実はうちの長女が失敗することを極端に怖がってて、何かにつけてチャレンジしようとしないので、いつかこの話をしてやろうと思って。(笑)
今回はそんなメモ代わりの記事でした~。
ガンガン断って、人生を楽しくシンプルに。
2011年の東北の大震災後に「繋がり」とか「絆」とかいう言葉がやたらと喧伝されていたけど、僕はあれに強烈な違和感があったんだよね。
正直なところ、「絆」っていう言葉には嫌悪感がある。たぶん3月11日以前には感じていなかったと思う。
— ノリズム (@qinon) 2011年12月12日
主語もないままに、ただ「繋がり」や「絆」が大事って、考えてみるとおかしなことだ。
だって、自分にとって必要のない繋がりや絆はいくらでもあるもの。
だけど世間では、よくわからない「繋がり」とか「絆」とかがいまだに大事なことだとされていて、人とのつながりや人脈が最上の価値だと考えている人も多い。
だから、人から何かに誘われると、なかなか断りづらいよね。
断ること自体が、何かいけないことをしているような気にさせるし、断ったら人間関係が悪化しちゃうんじゃないか?とか、立場的に断りづらい…とか、断ると不利益を被りそうで怖いとか、いろいろ考えてしまうことにもなる。
でもさ。
断ったくらいで悪化しちゃうような関係性なら、そんな関係はもともと自分にとって必要のないものだと思う。
断ることで不利益を被るような関係は早めに断ち切ったほうが自分のためにもなる。
もし仮に、断ることで一時的に関係が疎遠になってしまったとしても、自分にとって本当に大切な関係性であれば、いずれまた繋がることができるはずだしね。
そういえば、何年か前にボブ・ディランがノーベル文学賞授与の連絡を受けて、受賞式典には「行けたら行く」って答えて話題になってたけど、あのくらいの気概でいたいものだなぁって僕は思う。(笑)
ということで、気が乗らないこと、違和感のあること、直感的に嫌だと思うことは、ガンガン断ったほうがいいと思う。
断ることで自分を取り巻く人間関係はどんどんシンプルになっていくし、空いた時間をもっと大切なことにも使える。
それに、いわば「人間関係の断捨離」が進むと、その空いたスペースには、新しい、よりよい人間関係が入ってくることになるからね。
100の浅い人間関係よりも、深い人間関係が1あることのほうが、僕は好きだ。
浅い人間関係を広げれば広げるほど、他人に振り回される機会を増やすことになるしね。
損得勘定、利害関係、世間体、建前、罪悪感、そんなことに縛られた人間関係はもう要らない。
心が共鳴する、本当に大切な人間関係を大切にして生きていきたい。