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 さあ、面白くなってきました。

考え方一つで、人生はどんどん楽しくなるね

僕のスピリチュアル遍歴 ①

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僕は、父方が仏教の寺、母方は神社、母個人はクリスチャンという、ちょっと複雑な家庭で育った。
それが良い方向に働く家庭もあるのかもしれないけど、我が家の場合はネガティブな要因でしかなかった。

幼少期からずっと、家庭内でも親戚間でも常にプチ宗教戦争が行われていて、母が親戚中から疎外され叩かれて相当苦しみ悩んでいたのは、子どもながらにわかっていた。

宗教に関する両親の諍いで古い記憶は、3歳くらいの頃からある。


そういえば一時期、それが原因で母はアルコールに溺れていたこともあった。

僕が小学6年の時に学校から帰ると、テーブルの上に空の一升瓶がドンと置かれていて、その傍らで真っ赤な顔をして完全に目の据わった母が、ろれつの回らない口調で意味不明なことをつぶやいていたのが忘れられない。

 

そんなこんなで、僕は子どものころから宗教が大嫌いだった。
宗教こそが不幸の元凶だと思っていた。(今も思ってるけど。笑)

そして何より、「あれをしちゃダメだ」「これをしなきゃいけない」と何かにつけて僕を押さえつけようとする「神」や「仏」が大嫌いだった。

 

その一方で、「自分は何のために生きているのか」「どうやって生きていけばいいのか」という疑問は常にあって、いつもその答えを探し求めていた。

10~20代のころは、哲学や文学、歴史、物理学、心理学なんかにそれを求めていた。
20代半ばには超ブラック企業に勤めていて五里霧中の混乱状態だったから、大嫌いなはずの宗教にその答えを求めようとしたことすらあった。

30代になってからは、デール・カーネギーやスティーブン・コーヴィーのような有名どころからそうでないものまで、様々な自己啓発書を読み漁って少し気がまぎれた。
でも、結局は僕が求めていることを解決できるものではなくて、納得できる答えはいつまで経っても見つけられないままだった。

 

今考えてみれば、僕は当時、漠然と「生き方」を探していたのだけれど、本当は探すものをもっと明確にしておかなきゃいけなかったなぁと思う。

結局、僕が求めていたのは、「人間」とは何か? 「生命」とは何か? 「死」とは何か? 「宇宙」とは何か? 「地球」とは何か? ということを明確にした上での、じゃあ「自分はどう生きるべきか?」ということだったんだよね。

それが曖昧なままだったから、深い霧の中で漠然と「生き方」を探し続けた。


そんな僕に訪れた大きな転機が、今から10年ほど前の母の死だった。

30代になるころから祖父母をはじめとして親戚が何人も亡くなって、毎年必ず身近な人の葬式に出るような状態だったから、「死」というものに触れる機会は多かったんだけど、当然ながら母の死は特別だった。

僕にとっては、人生で最悪の出来事と言っていいくらいの悲しく辛いことで、気持ちが晴れない状態が1年以上続いていたと思う。

 

ただ、その時期に不思議なことがたくさん起きたんだよね。

悲しみに沈んでる僕に向かって、母が「死んで肉体はなくなったけど、いつもそばにいるよ」って教えてくれてるんじゃないか?と思えるような、普通では考えられないような不思議な体験をたくさんした。

 

それで人の死というものに対して強烈な関心が湧いてきた僕は、またいろいろな書籍を読み漁り始めた。

そんなときに出会ったのが、当時、福島大学の教授をしていた飯田史彦氏の「完全版・生きがいの創造」という本で、人の生まれ変わりをテーマにした、相当スピリチュアルな内容だった。

似たようなテーマで20歳前後に読んだ立花隆氏の「臨死体験」のときにはそんな衝撃は受けなかったんだけど、それは多分、当時の僕にとって死が身近なものではなかったからだと思う。


この「生きがいの創造」が僕にとって大きな意味を持ったのは、「肉体は滅んでも魂は生き続ける」ということに気づけたからだと思う。

つまり、僕の今のこの人生が終わって死を迎えたとしても、「無」になるわけではないということに確信が持てたんだよね。
母の死後に起きたいろいろ不思議なことも腑に落ちたというか。

それによって、ようやく僕は母の死という悲しみを癒し、乗り越えることができた。


ただ、その時点ではまだ「死」というものの位置づけが少し見えてきただけで、「どう生きていけばいいのか?」という問いに対する答えはまだ見つけられずにいた。


(次回に続く)

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