どうして頑張らないほうがいいの?
9月にこのブログを書き始めて、今回でちょうど50記事目になるんだけど、最初に書いたのはこんな記事だった。
この記事を読んでくれた知人から、「“頑張らなくていい”っていうのが理解できない。頑張らないとダラけた生活になっちゃうだけなんじゃない?」っていう疑問を頂戴した。
おそらく「頑張らなくていい」って言うと、この方と同じように感じる人は多いだろうと思うので、今回は改めて「頑張らなくていい理由」について書いてみたい。
あの記事でミスったなぁと思うのが、僕が思う「頑張る」の定義を書かなかったことだと思うので、今回はまずそこから説明したいんだけど、僕にとって「頑張る」とはこういうこと。
頑張る
自分にとって嫌なこと、辛いこと、苦しいことに対して、自己を犠牲にして時間を使うこと。
(ノリズム大辞典)
一言で言うと、「やりたくないことを嫌々やる」っていうことかな。
で、これは本当にやめたほうがいいと僕は思ってる。
やりたくないことを嫌々やっても良い成果は出ないし、成長しづらいし、心は折れるし、場合によっては人を責めたりと、悪い結果を招くことになる。
そんな時間があったら、もっと自分がワクワクすること、時間を忘れるくらい熱中しちゃうことに時間を使ったほうが全然いい。
例えば、ある男性が、勤めている会社が自分に合わなくて、成績もパッとせず、仕事に行くのが辛くて辛くて仕方ないとする。
本当は辞めたいんだけど、社内の人間関係とか、社会的な体裁とかいろいろ考えると辞められなくて、勤め続けている。
それでも彼は頑張ってその会社で仕事を続けるべきなんだろうか。
僕はそう思わない。
そんな自分に合わない会社や仕事に時間をとられるくらいなら、もっと自分を生かせる職場なり仕事を見つけて別のことをしたほうが幸せになれるに違いないから。
仕事と家庭の両立に苦労している、ある女性がいたとする。
彼女は料理が苦手な上に、毎日仕事から帰って家族のために夕食をつくるのが、しんどくてたまらない。
でも、「ご飯は手作りでないと母親として失格だ」というプレッシャーがあって、どんなに苦しくても頑張って毎日夕食を手作りしている。
でもこれって、本当に頑張る必要があるんだろうか。
僕はそうは思わない。
ご飯をつくることが苦痛なら、レトルト食品でもインスタントでも何でもいいと思う。
それによって気持ちにゆとりができて笑顔が増え、家族とのコミュニケーションの機会が増えることのほうが、子供にどれだけ良い影響を及ぼすか。
頑張って手作りの御飯をつくってあげてるけど、それゆえに子どもの話をゆっくり聞いてあげる余裕がなくなったりするようなら本末転倒だ。
ある子どもが、中学校に入るときに何か部活に入らなきゃいけないと言われて、とりあえず野球部に入ったとする。
でも、部活の練習は楽しくないし、先輩・後輩の上下関係にもなじめなくて、部活に行くことが苦痛でしかなかったとしたら、それでもその子は、頑張って3年間続けるべきなんだろうか。
僕はそう思わない。
そんな苦痛に満ちた3年間を過ごすくらいなら、もっと自分が熱中できること、やり始めたら時間を忘れちゃうくらいのめり込んでしまうことに時間を使ったほうが、確実にその子のためになると思う。
もしかしたら、その子にとっては楽器を演奏することのほうが向いていて、そちらに進めばその子の可能性が伸びたのに、野球を頑張り続けたことで彼の才能は開花しないまま大切な時期が過ぎてしまった、ということもあり得る。
頑張らなきゃいけないっていうことは、どこかにムリがある(歪みがある)ということにほかならない。
僕は、「頑張ら」なきゃできないような嫌なこと、辛いこと、苦しいことは、「そっちはキミが進むべき道ではないよ」という自分の魂の声(魂が発しているサイン)だと思ってる。
つまり、「頑張る」ということは、もっと別の幸せな道があるのに、それを無視して間違った道を突き進む行為だと思う。
だから、「頑張れ」ば「頑張る」ほどに人生は本来の道からどんどんズレて、幸せから遠ざかっていくことになる。
「頑張らなきゃ…」って思ったら、ちょっと立ち止まって深呼吸してみよう。
そして、「今自分は頑張らなきゃって思ってるけど、この頑張りは本当に幸せにつながる道なのかな?」って、少し考えてみよう。