「執着」を測る“関数”
気づいてみればもう12月だけど、ちょうど1カ月前に僕はこんな記事を書いていた。
何かにこだわる、つまり執着するのは人間として当然のことかもしれないけど、執着しすぎると幸せはどんどん遠ざかっていくよっていう内容だった。
ただ、自分は何に対してどれくらい執着しているんだろう? と考えても、パッと思い浮かべるのは難しいよね。
それで、こんな方法を考えてみた。
まず、自分の人生の目的や、一番大事にしている価値観を書き出す。
つまり、これだけは譲れないっていう最強の執着だね。(笑)
僕の場合の人生の目的は「この地球に生まれた喜びを味わい尽くす」っていうことなんだけど、少しチャンクアップして、「幸せである」ということにする。
で、執着しないということは、つまり「無関心である」「どうでもいい」という状態だから、こういう“関数”を考えてみた。
○○でありさえすれば、△△なんてあってもなくてもどっちでもいい。
僕の場合は、この○○のところに「幸せ」を入れてみる。
幸せでありさえすれば、△△なんてあってもなくてもどっちでもいい。
次に、この“関数”の△△のところに自分がこだわってそうなことをいろいろ代入してみる。
- 幸せでありさえすれば、仕事なんてあってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、お金なんてあってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、株取引なんてしてもしなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、本なんて読んでも読まなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、家なんてあってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、ビールなんて飲んでも飲まなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、食事なんてしてもしなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、スマホなんてあってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、健康であってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、思い出なんてあってもなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、友人なんていてもいなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、家族なんていてもいなくてもどっちでもいい。
- 幸せでありさえすれば、子どもなんていてもいなくてもどっちでもいい。
そして、この書き連ねた“関数”に対する違和感を個別に見ていくの。
僕の場合、自分では執着していると感じていた仕事とかお金なんかに関しては、それほど違和感がなかった。
一方で、健康とか、友人、家族、子どもといった人間関係的なことについてはかなり違和感があった。
それはたぶん、健康や身近な人間関係がゼロなのに幸せであることなんてできるんだろうか?っていう疑いがあるからだと思う。
で、それは別に手放すべき執着とも思えないから、僕はこれからもそういうものを大事にして生きていくんだろうな、と。
ただ、仕事とかお金は比較的容易に手放せそうな気もするから、少しずつ手放していこうかな? と。
こうやって執着の強弱を見ていくことで、自分を冷静に振り返ることができるかもしれない。
お金に対してそんなに強くこだわる必要あるかな?と思えたら、お金に振り回されている自分を改善できるかもしれないし。
そして、本当に大切にしたいもの(執着したいもの)がハッキリするから、人生の優先順位が明確になるよね。
毎日なんとなくモヤモヤしてる、とか、ただただ毎日が流れていく~っていう人は、ちょっと試してみてもいいかも?