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 さあ、面白くなってきました。

考え方一つで、人生はどんどん楽しくなるね

「自分じゃないもの」になろうとしない。

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以前こんな記事(ありのままの自分で生きるということ)を書いたけど、僕らは自分以外の何かになろうとし過ぎているように思う。

 

もっとこうしなきゃ、もっとあんなふうにならなきゃ、もっともっと…って、ハードルを高く上げて進むのも悪くないと思うけど、「本来の自分」とかけ離れたものを求め過ぎて、結果的に無理が生じてる人もいるんじゃないかな?

前々回の記事で書いたゲームバランス的に言うと、自分自身の現状と周囲の環境が大きくズレてしまって、人生というゲームを楽しめなくなってる人も多そうだ。

 

それに、もっともっと…って自分自身に対して今以上を求め続けるということは、裏を返せば絶えず自分を否定しているのと同じことだ。

人にはそれぞれ個性があるから、自己を徹底的に否定して、そこから這い上がって物事を成し遂げるというタイプの人もいるかもしれないけど、自分を否定し続けているうちに弱ってしまう人も少なくないと思うんだよね。

 

だから、苦しいときは肩の力を抜いて、ありのままの自分で生きてもいいんじゃないかと僕は思う。

 

  • 良い人
  • 良い親
  • 良い子ども
  • 良い社会人
  • 良い上司
  • 良い友人
  • 良い○○…

 

多くの人が「良い人物」であろうとしているけど、その場合の「良い・悪い」っていうのは、いったい誰が決めた基準なんだろうか?

自分以外の誰かが決めた「良い人物」、社会が求める「良い人物」じゃないだろうか?

 

そういう本来の自分でないもの、自分の外部にある基準を目指していると、必ずどこかに無理が生じる

そして、無理を重ねると自分自身が苦しくなるだけではない。

責任を他者のせいにしたり恩着せがましくなったりして、自分の周囲の人たちも息苦しさを感じるようになる

 

そういえば、 今回の日本シリーズ(ホークス vs ジャイアンツ)第3戦を観戦した澤村投手が、その観戦記の中で、自分自身についてこんなふうに語っていた。

 

巨人時代はストライクゾーンを4分割で考えていたけど、ロッテの時は内外角の2分割に変えた。
ケース、状況、場面を考えながら「自分を許す」ようにもした。
極端に言えば、左打者が進塁打を狙ってくるケースで、外に2球ボールになったとしても、進塁打を打たれないようにしてるからOKだと。
「どうしよう」じゃなく、許すことも大事だなと思った。
自然と自分を苦しめてたことに気付けたのも大きかった。

 

日刊スポーツ(ソフト選手は何をすべきか分かっている/沢村観戦記

 

ちなみに、今年2月に亡くなった野村克也カントクはストライクゾーンを9分割していたことで有名だけど、そもそもストライクゾーンを何分割するかなんて、自分で勝手に決めてることだ。

何が正しいとか間違っているとかはなくて、自分に合った基準を自分で決めればいいだけのこと。

それなのに、自分で勝手に決めた基準に縛られてしまって、その結果苦しむことになるなんて、第三者から見たら滑稽ですらある。

 

でも、これは他人のことだから言えるのであって、自分のことになると途端に見えなくなってしまうのが僕ら人間ってもんだよね。

「自分以外の何か」になろうとして自分自身でハードルを上げたことが、知らず知らずのうちに自分を苦しめていることは誰にでもあることだと思う。

 

ましてや、誰かが誰かの基準で決めた「良い人物」なんかになろうとすれば、歪みが生じるのは当然だ。

 

だからこそ、意識してそのままの自分を許してあげるようにしたい。

「自分以外の何か」になろうとするのではなく、「本来の自分」のまま自然体で生きることこそが幸せへの近道だと僕は思う。

 

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