社会貢献“極”論
前回の記事で「社会貢献」について書いているうちに、さらに考えが深まったというか、より過激化(笑)したので、今回も引き続き「社会貢献」についての僕なりの考えを書いてみたい。
結論から先に言うと、「社会貢献」なんてそもそも意識する必要はないということだ。
ちなみに、社会貢献の意味をウィキペディアで調べてみるとこんなふうに書いてある。
アンダーラインは僕が引いたよ。
つまり「社会貢献」には、①私は社会貢献するぞー!と意識してやるのと、②何か別のことやってたら結果的に社会貢献でしたー!っていう2つのタイプがあるっていうこと。
通常、僕らが「社会貢献」について話をするときは、どちらかというと①を指すことが多いと思う。
だから、①のように能動的に「社会貢献」をしていない人は、ちょっと後ろめたさを感じたり、「社会貢献」をしている人は凄いなぁと思ったりすることもある。
でもね、「社会貢献」っていうのは①だけじゃない。②だって立派な「社会貢献」だ。
いや、むしろエゴや押しつけ、偽善がないという意味では、①よりも純粋な「社会貢献」と言えるかもしれない。
で、僕は、この②の「社会貢献」をやっていない人は存在しないと思うんだよね。
それは、例えばこういうこと。
僕が近所の人に「こんにちは!」と元気よく挨拶したとする。
それで、そのとき相手の人がちょっといい気分になったとしたら、それはまさに「社会貢献」だ。
逆に、僕が近所の人に挨拶もせずに無視して通り過ぎたとする。
そのとき相手の人が「この人は挨拶もできない人なんだな。自分はこんなふうにはなりたくないな」と思ったとすれば、僕は反面教師としてしっかり「社会貢献」したことになる。
ある女性が、今いる会社が嫌になって辞めたとする。
彼女が辞めると、会社としては欠員を補充するための採用活動をしたり、またゼロから新入社員教育をするなど膨大なコストが必要になる。それ以外にもいろいろと迷惑をかけることになるから、彼女は罪悪感や申し訳なさを感じるかもしれない。
だけど、彼女が辞めることで新しい雇用が生まれるとすれば、彼女はちゃんと「社会貢献」したことになる。
ある男性が、諸事情あって家に引きこもって暮らしているとする。いわゆるニートだ。
本人や家族は、とても肩身の狭い思いをしているかもしれない。
でも、彼のような存在が、今の日本の社会システムの異常さに気づかせてくれているとしたら、彼は大いに「社会貢献」していることになる。
ある男が、社会が戦慄するような凶悪な犯罪を犯したとする。
でも、その犯罪があったことで新しい法律が整備され、同種の犯罪が減ったとしたら、彼は立派な「社会貢献」をしたことになる。
ある会社が従業員にひどい働かせ方をして、社会問題化したとする。
でも、その会社がそういうことをしたことで社会のムードが働き方改革の方向へ進んだとしたら、その会社は十分に「社会貢献」したことになる。
これ以上言うと過激になりすぎるのでやめておこう。(笑)
つまり何が言いたいかというとね。
僕ら人間の行為というのは、切り口を変えて見るとすべからく「社会貢献」になるということ。
その行為が、一見ポジティブに思えることであれネガティブに思えることであれ、結果として他者(=社会)に貢献していることには違いない。
だから、そもそも「社会貢献」なんて別に大したことじゃなくて、誰もが知らず知らずのうちにやっていることであり、「社会貢献」自体に良いも悪いもない。
ただ現状では、社会がそれに対してポジティブなイメージを植え付けているだけのことだ。
今回いろいろ考えてみて、「社会貢献」という言葉に踊らされていた自分に気づいた。
「社会貢献」は美化すべきものなどではなく、人間が存在する限り自然に発生するもの、言ってみれば「ヒトが酸素を吸ったら二酸化炭素が排出される」という程度の自然現象なんだと思う。
その前提の上で、もっと積極的に社会貢献がしたい!と思う人がいるなら、そんなにやりたいならやったらいいんじゃない?というくらいの雰囲気になれば、「社会貢献」を取り巻くモヤっとした感情はなくなると思う。
そうなれば、積極的な「社会貢献」をしている人に対するバッシングとか、偽善などと言われることもなくなるんじゃないかな。
ということで、以上、社会貢献“極”論でした。(笑)
ちなみに、僕らが世の中に貢献するために一番大切なことについては次回書くので、そちらとセットで読んでもらえると嬉しいです。