世界の二面性と、僕らのスタンス。
前回の記事で、「プラス面だけ見ればいい」と書いてしまったので、そこだけ読むと誤解されてしまう可能性があるなぁと思った。
あの記事で書いたのは、単に、自分に直接関係のないことはプラス面だけ見てればいいんじゃないか?ということで、どんなことでもプラス面だけ見てればいいというお気楽なことが言いたかったわけじゃない。
ポジティブ思考万歳!!なんてことが言いたかったわけではありません。(笑)
世の中のすべてのことにはプラスとマイナス、陰と陽、ポジティブとネガティブ、善と悪、裏と表、というように二面性がある。
いや、本当はそんなものはないんだけど、僕ら人間が物事に意味づけをするから、二面性が生じてしまうわけだ。
何らかの出来事があって、そこにポジティブな意味を与えると、それと同時にネガティブな面も生まれてしまうってこと。逆もまたしかりでね。
例えば、勤めている会社の業績が良くて、臨時ボーナスとして一人当たり10万円の寸志が配られたとする。
で、それをもらった人は、突然のことなので喜ぶ。
喜ぶということは、突然10万円をもらったことにポジティブな意味を与えているわけだ。
だけど、どんなポジティブなことにも反対の側面がつきまとう。
表面だけのコインや、裏面だけのコインがないのと同じことだ。
つまり、10万円をもらったことにポジティブな意味づけをすると、同時にネガティブな側面が現れる。
たとえば。
- もらった10万円を紛失したり、盗まれたりするかもしれない。
- 10万円もらったことで、会社からの要求や縛りがキツくなるかもしれない。
- 次の臨時ボーナスが5万円だったら喜べないかもしれない。
- 今後、会社の売上が急落したら次の賞与は減額されるかもしれない。
そんなふうに、10万円を突然もらうということのポジティブな側面は、ネガティブな側面と表裏一体なわけだ。
ところで、今、財布の中に5,000円札が1枚だけ入っているとする。
そのとき人は、【財布の中に5,000円入っているという事実】以上の意味を与えてしまいがちだ。
「5,000円しかない」と考える人もいれば、「5,000円もある」と考える人もいる。
一般的に、「5,000円もある」と考える人はポジティブな人だと言われ、「5,000円しかない」と考える人はネガティブな人だと言われる。
だけど、ポジティブな人が物事をポジティブに見れば見るほど、その裏でネガティブな側面も大きくなるし、ネガティブな人がネガティブな意味を与えれば与えるほど、実はポジティブな側面も増えていく。
そして、ポジティブな面しか見ない人はネガティブな面があることを忘れがちで、ネガティブな考え方に偏っている人はポジティブな面を見落としてしまう。
何が言いたいかというと、ポジティブばかりの人も、ネガティブばかりの人も、バランスが良くないんじゃないか?ってことだ。
この世界の大前提として、あらゆる物事はそもそも中立で無色透明だということを知っておいたほうがいい。
そして、自分が何かにポジティブな意味を与えるとその出来事は一見ポジティブになり、ネガティブな意味を与えると一見ネガティブな出来事になる。
だけど、本来はニュートラルなものに意味づけをしているわけだから、プラスの意味を与えた瞬間にマイナスの意味が生まれて本来のバランスをとろうとするし、マイナスの意味を与えると同時にプラスの意味が生まれてバランスをとろうとする。
この原理を知っておくことが大切だと僕は思う。
その原理がわかっていれば、プラスマイナスゼロに近い場所にとどまることができる。
そして、「ああ、今自分はポジティブな意味を与えているな」とか、「ちょっとネガティブなほうに寄ってるな」ということを客観的に、俯瞰して眺められるようになる。
そうすれば、どんな出来事が起きても動揺しづらくなる。
その上で、じゃあ自分はどちらに進んでいきたいのか、ポジティブとネガティブのどちらを選択したいのか。それを考えて行動する。
おそらく、多くの人はポジティブなほうを選ぼうとするだろうけれど、これは何も考えずにポジティブな側面だけを見るのとは全く違う行為だと思う。
つまり、全体を客観的に俯瞰して現在地を把握し、自分の望む方向を主体的に選んでいくということは、「この世界をつくっているのは自分自身である」ということを認識していることを意味する。
それができるようになれば、自分の外側で起きていることに振り回されることが少なくなって、自分軸で生きられるようになるんじゃないかな。
僕自身もまだ会得できているわけではないから、わかりやすく説明できない部分があるけれど、とりあえず僕は今、そんなふうに考えてる。
それでは今日はこの辺で!
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「どうでもいいこと」はプラス面だけを見る。
僕はテレビをほとんど見ないし、ワイドショー的なネタには昔から興味がないので、世の中の話題についていけないことも多い。
特に最近よくわからないのが、秋篠宮家の眞子さんの結婚をめぐる世間の反応だなぁ。
どうやら、お相手の男性の家庭で過去に金銭トラブルがあったらしく、それが理由で結婚相手にふさわしくないということで叩かれているみたいだね。
もしかしたら、それだけが理由じゃないのかもしれないけど。
でも僕は、どうしてそんなことが大騒ぎになってるのか、よくわからない。
そんなこと、どうでもよくないかな?
親族でもないのに、他人の結婚に口出しする理由がよくわからない。(笑)
一人の女性と一人の男性が結婚したくて結婚する。
どうして外野が、いや、外野どころか球場の外の遥か遠くにいるような人たちがそれに異議を唱えるんだろう?
他人の結婚なんてどうでもいいじゃないかと思うよ、僕は。
いや、むしろ祝福してあげたらいいと思うよ。おめでたいことなんだし。
そう言うと、税金ガー! とか、皇室の品位ガー! とか言う人がいるのかもしれないけど、結婚に絡む費用なんて大した金額でもないと思う。
それ以上にとてつもなく巨額の税金が無駄に使われていることには何も言わないのに、その程度のことで目くじらを立てるのは不思議だ。
あと、皇室の品位が落ちるとか言う人もいるのかもしれないけど、皇室に品位を求めるのもおかしな話だと思う。
歴史を見ればわかるけど、皇族と呼ばれる人たちは太古の昔から宮廷で激しい愛憎劇や血みどろの権力闘争なんかを繰り広げてきた家系なわけで。
「品位」なんて、しょせん後付けの包装紙にすぎない。
眞子さんだけじゃないと思うけど、今の時代の皇室に生まれるというのは大変なことだろうと思う。
生まれてこの方、大きな制約の中で窮屈な思いをしながら生きてきたんだろうから、結婚ぐらい自由に、好きなようにさせてあげたらいいのに。
祝福して、温かく見守ってあげたいと思うな。僕は。
それに、攻撃するより祝福したほうが、自分自身が心地良くいられると思うんだよね。
もしこれが自分の家族のことだったら、悩んだり怒ったり苦しんだりするのも仕方ないかもしれない。
だけど、眞子さんの結婚なんて、僕自身には全く関係のないことだからね。
結婚に反対したからといって眞子さんが僕と結婚してくれるわけでもないし。(笑)
だったら、自分にとって心地良いほう(祝福)を選択したほうが断然いい。
自分とは全く関係のないどうでもいいことに関しては、楽しい側面・嬉しい側面だけ見てればいいんじゃないかと思うよ。
あ。そうそう、話は変わるけど。
ずいぶん昔に、イエスだったかノーだったか忘れたけど、そんな感じの名前の人がこんなことを言ってたのを思い出した。(笑)
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。
それでは今日はこの辺で!
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承認欲求を満たすには?
ネット上の情報、特にSNSの投稿を見ていると、満たされることのない承認欲求が溢れてるなぁって感じる。
「もっと私を見て」
「どう?凄いでしょ?」
「もっと褒めて~」
投稿された言葉の裏には、そんな心の声が渦巻いている。
もちろん、僕が書くこのブログの記事も含めての話だけど。(笑)
でも、仮にたくさんの高評価をもらって、その瞬間は満たされたような気分になったとしても、そんな満足感は一瞬で消える。
SNS上でどれだけ多くの「いいね」や賞賛のコメントをもらっても、それだけで承認欲求が満たされることはない。
いや、SNSに限らず、職場でも家庭でもそれ以外でも、他者からどんなに高く評価されても、承認欲求が満たされることはない。
それはなぜか?
わかりやすくするために極端な例を考えてみよう。
例えば僕が、みんなから「凄い」と言われたくて、ウソで塗り固められた記事を書いて投稿をしたとするね。
その結果、記事を読んだ人たちは軒並み高評価をしてくれて、たくさんシェア・リツイートされて、賞賛のコメントも読みきれないほどに書き込まれた。
それを見た僕は満たされた気持ちになるだろうか?
なるわけないよね。(笑)
だって、書いた内容は全部ウソなんだもん。
人からどんなに「凄い」と思われたとしても、自分自身がそう思っていなれば承認欲求が満たされることはない。
つまり、自分が自分のことを【50】だと思っているときに、他の人から「キミは【100】だよ! 素晴らしい!」と言われたとしても、自分の認識が【50】である限り、決して【100】の満足感は得られない。
でも、その構造がわかっていない場合が多いんだろうと思う。
だから、誰かから「キミは【100】だよ!」と言われてるのに、どうして満足できないのか理由がわからなくて、渇望感は続く。
そして、「【200】と言ってもらえたら満足できるんじゃないか?」「いや、【1000】と言ってもらえたら…」というふうに、際限なく他者からの承認・称賛を求めることになる。
だけど、仮に【200】とか【1000】とか言ってもらえたとしても、自分の認識が【50】である限り、満たされることは決してない。
自分で自分を認めてあげていないことが渇望感の原因なのに、それを人に埋めてもらおうとするから、承認欲求の無限ループにはまり込む。
もっと評価して!
足りない!
もっと褒めて!
足りない!
もっと凄いと言って!
足りない!
足りない!
足りない!
承認欲求という名のグラスに水を注げるのは自分自身しかいない。
この不毛なループから抜け出すためには、自分で自分を認めてあげるしかない。
そのために大切なのは、どんな自分にも「オーケー」を出してあげることだと思う。
ダメな自分、失敗した自分、ズルい自分、情けない自分、下手な自分、ネガティブな自分、アホな自分、カッコ悪い自分、醜い自分、、、どんな自分にも。
「いいよ、それでいいんだよ」
「大丈夫だよ、なんとかなるよ」
「しょうがないよ、それは」
「そんなの、そう感じて当然だよ」
「怒っちゃうよね、それは」
「誰だってそうだよ」
「気にするようなことじゃないよ」
「へえ、すごいじゃん」
「いいね! いいね! いい感じ!」
恋人や大好きな人に言葉をかけるときのように、自分自身にも優しく温かい言葉をかけてあげる。
そうやっていれば、きっと、少しずつ承認欲求のコップは満たされていく。
そしてそのうちにコップの水はいっぱいになって、他者からの承認なんて必要なくなるんじゃないかな。
僕はそんなふうに思う。
それでは今日はこの辺で!
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すべては変わる。変えられる。
自己啓発書なんかを読んでいると、よくこんなフレーズを目にする。
「他人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられる」
これはもともと、エリック・バーンというカナダ生まれの精神科医の言葉らしい。
You cannot change others or the past.
You can change yourself and the future.(Eric Berne)
僕が最初にこの言葉を知ったのは、たしか20代後半のころ。
人材育成系の本を読んでいたときにこのフレーズを目にして、えらく感激したことを覚えている。
確かにそうだ!他人と過去は変えられないけれど自分と未来は変えられるんだから、変えられることに意識を向けよう!ってね。
だけど、あれから20年近く経った今、これはちょっと違うなぁって思う。
他人は変えられない? 本当にそうだろうか?
過去は変えられない? 本当にそうだろうか?
ちなみに僕は今、他人も自分も、過去も未来も、すべて変えられると思ってる。
他人にしろ過去にしろ、何でもそうだけど、ある対象についてどう感じるかは、自分次第だ。
だから、自分の考え方や観念が変われば、他人も過去も一瞬で変わってしまう。
以前にも引用したことがあるけれど、まさにこれが良い例だよね。
私は地下鉄の車両に乗り込んだ。
乗客は静かに座っていた。
ある人は新聞を読み、ある人は目を閉じ休んでいた。そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。
すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。子供たちは大声を出したり、物を投げたり、なんとも騒々しく、気に障るものだった。
しかし、その男性は私の隣で目を閉じて座ったまま。
私はいらだちを覚えずにはいられなかった。
子どもたちを注意もせず、ただ座っているだけの彼の態度が信じられなかった。周りの人たちもいらいらしているように見えた。
私は耐えられなくなり、彼に向かって控えめに、「あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのですか?」と言ってみた。彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついた表情になり、柔らかいもの静かな声で、こう返事した。
「ああ、本当にそうですね、どうにかしないと……。たった今、病院から出てきたところなんです。一時間ほど前に妻が…あの子たちの母親が亡くなったものですから……。いったいどうすればいいのか……。子供たちも混乱しているみたいで……」
その瞬間の私の気持ちが想像できるだろうか。突然、その状況を全く違う目で見ることができた。
違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの気持ちが自然にあふれ出してきたのである。
「奥さんが亡くなったのですか、それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか?」
一瞬にしてすべてが変わった。
(出典:『7つの習慣』 スティーブン・R・コヴィ)
過去も他人も一瞬にして変わる。
自分の考え方ひとつで。
もちろん、現実的には、自分が嫌いな人や受け入れがたい過去を変えるのは容易なことじゃないと思う。
今日こんな記事を読んだ。
この大東さんという俳優のことはよく知らなかったんだけど、この内容は胸に刺さるものがあった。
この記事で大東さんがおっしゃっていることはスピリチュアル的にも納得感のあることが多いんだけど、これもその一つだ。
不思議だけど、亡くなってからのほうがお父さんのことを好きだし、自分の父親だと感じます。
これってつまり「自分がどう思うかで世界は一変する」ということだと思うんですよ。
相手や出来事に対して、自分がどう見て、どう思うかで、相手への認識もその後の行動も変わっていくんだよな、って。
他人を変えることは簡単じゃないかもしれない。
過去を変えることも簡単じゃないかもしれない。
だけど、それは不可能じゃない。
そして、きっかけさえあれば一瞬で変わる。
いや、むしろ、すべては変わる。必ず変わる。
そのことは知っておいたほうがいいと思うんだ。
必ず、それを実感できるときが来る。
それでは今日はこの辺で!
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まだそんなことやってるのか。
もう20年以上前、僕は新卒で東京のテレビ番組制作会社に就職した。
もともとは新聞記者に憧れていたんだけど、大手新聞社はもちろんのこと、地方の新聞社の試験もことごとく落ちて、それならばと受けたテレビ局も当然ながら全滅した。
それで、マスコミ業界に限らずいろいろ受けていたところで、ようやく受かったのがその制作会社だった。
番組制作会社としては大手として名が通っていたし、当時は就職氷河期のど真ん中だったから、「就職できるだけでも運がいいじゃないか」と自分を納得させて、入社した。
ところが、入社後は2~3日の社内研修の後、在京キー局の1つに派遣されて、AD(アシスタントディレクター)として報道番組の制作をすることになった。
制作といっても、局内では最下層の身分なので、仕事の多くは小間使いみたいなものだった。
長時間労働なんて当たり前で、パワハラは日常茶飯事、超低賃金(手取りで月に13万円くらいだった)。
まさに漆黒の闇、超絶ブラックな職場だった。
睡眠時間がほとんどないまま2~3日働き続けることはよくあったけれど、一番キツかったのは台湾で大地震が起きたときだ。
僕は報道局付きのADだったので、台湾大地震の特番制作チームに回された。
テレビ局社員のディレクター2名と、同じく社員のADが1名、地方の系列局からの応援ディレクターが3名、編集スタッフが2名。で、僕ら外部からの派遣ADが2名というチーム構成だったと思う。
地方局からの応援ディレクターは紳士的な人ばかりだったけど、局員ディレクター2名のパワハラは、いつも同様に酷かった。
そんな中で僕と同僚のADは、1週間、一睡もせずに働き続けた。
労働時間で言うと、7日間×24時間=168時間。
1週間の労働時間で、僕のこの記録を超えられる人はおそらくいない。
というか、絶対にいない。世界中のどこにも。
だって、物理的にこれ以上働くことはできないから。(笑)
4日目以降は意識が朦朧としてて、生きているのか死んでいるのかもわからない状態。雲の上を歩いているようなふわふわした気分だった。
地下鉄に飛び込んだら気持ちいいかもなぁとか、このディレクターの頭を金属バットで殴ったらスッキリするだろうなぁとか、いや、巨大な鎌で首を切り落としてやろうかとか、そんなことを何度も考えてたのを覚えてる。(笑)
そんな昔の物騒なことを思い出したのは、今朝こんな記事を読んだからだ。
20年前ならともかく、いまだにそんなことをやってるのか…と、なんとも言えない気持ちになった。
しかも、この亡くなった方は岡山放送の局員みたいだから、もし僕らのような下請け企業のスタッフがいたとすると、その人たちはさらに過酷な状態だったに違いない。
人間は、いつまでこんなことをやり続けるんだろう。。。
誰もが、もっと自由に、楽しく、生き生きと暮らせる世の中が早く来ますように。
そう切に願う。
それでは今日はこの辺で。
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*1:
【独自】テレビ局員の自殺「長時間労働が主な原因」、遺族に報告…パワハラ行為も
2021/09/29 08:02
フジテレビ系列の岡山放送(岡山市)に勤務していた30歳代の男性社員が7月に自殺し、同社が「長時間労働が自殺の主な原因だった」として、遺族に経緯を報告していたことがわかった。同社は幹部社員らの処分を検討している。
同社や関係者によると、男性社員は7月、岡山市内で自殺。社内調査の結果、直前の6月14日~7月5日、100時間以上の時間外労働をしていたことがわかった。また、上司による過度な 叱責しっせき など、パワーハラスメントとみられる行為も確認された。
男性社員は報道部門の記者だったが、2020年春にバラエティー番組などを制作する子会社に出向。長時間労働に加え、不慣れな仕事も重なり、思い悩む様子が増えたという。
岡山放送の中静敬一郎社長ら幹部が9月20日頃、遺族のもとを訪れ経緯をまとめた報告書を渡した。27日には社員らを前に「若く優秀な社員の命を守ることができず、心からおわび申し上げる」と謝罪した。
どうして勉強しなきゃいけないの?
どうして勉強しなきゃいけないの? って、子どもから聞かれたことがある人は多いと思う。
そんなとき、何と答えるかは人それぞれだし、何か一つの正解があるわけでもないと思う。
ちなみに僕は以前、子どもからそう尋ねられたときに、「それは、自分で物を考えるのに必要な知識を身につけるためだよ」と答えた。
そしてこう付け加えた。
「そうしないと、簡単に人から騙されてしまうことになるよ」って。
この付け加えた言葉が良かったのかどうかは、正直、自分でもわからない。
人を疑うことが前提になってしまうからね。
だけど、子どもが誰かに騙されたり、犯罪に巻き込まれたり、災難に遭ったりするのは嫌だ、というのが僕の本心だ。
世の中には、ウソか本当かわからないような情報が溢れているし、実際に悪意を持って情報をコントロールして、印象操作するようなケースも少なくない。
いや、むしろ、情報を出す側は必ず何らかの意図を持っていて、多くの場合、自分にとって都合のいい情報しか出さない。
今回の新型コロナ騒動は、そういう有象無象の情報を自分で取捨選択して拾い上げ、自分の頭で考えて判断するための、良い機会だと思う。
明らかなデマや陰謀論から、科学的にしっかりと確認・検証された事実まで、ありとあらゆる情報が出回る中で、何を選択し、どう考えて行動するか。
NHKが報道していたからとか、総理大臣が言ってたからとか、そんなことが判断基準にならないのは自明だ。
これはもう、義務教育を含めたこれまでの学びや経験をベースにして自分で対処するしかない。
例えば、新型コロナワクチンの有効性に関してもそうだ。
日本で最も多く接種されているファイザー社のワクチンは、その有効率が95%以上と言われていて、そのことがワクチン接種の根拠になっている。
で、この有効率95%というのは、同社が行った試験結果に基づいている。
ちなみに、その試験はこういうもの。
被験者約4万4,000人を、ほぼ半数ずつの2グループに分けた。
・Aグループ(2万1,992人)にはワクチン接種・Bグループ(2万1,838人)には偽薬を注射
その後1ヶ月間の追跡調査をして新型コロナの発症を確認したところ、結果はこうなった。
・Aグループ(2万1,992人)は発症者8人・Bグループ(2万1,838人)は発症者162人
つまり、ワクチンを接種しなかったBグループは、ワクチン接種したAグループに比べて発症率が20.5倍(162人 ÷ 8人=20.5)ということになる。
逆に言えば、ワクチンを接種すると発症率を約20分の1に抑えられるということになる。
20分の1は、百分率で表すと5%。
したがって、ワクチン接種した場合の発症率は5%。
だからワクチンの有効率は95%、というロジックだ。
このファイザーのロジックを見て、「あれ? 何かおかしくない?」と感じられるかどうかが、冒頭の「どうして勉強をしなきゃいけないの?」の答えになると僕は思う。
情報を提供する側は、基本的に自分にとって都合の良いことしか言わない。
ファイザー社の「有効率95%」という数字も、屁理屈のような話だと僕は思う。
有効率95%ということを本当に証明したいのであれば、2万人にワクチンを接種して、その全員を新型コロナウイルスに暴露(ウイルスに接触)させた結果1,000人しか発症しなかった、という実験結果じゃないとおかしい。
もちろん、今の状況で被験者全員をコロナウイルスに暴露させるというのは倫理的にも許されないだろうから、現実的ではないけれど。
じゃあ、かわりにちょっと別の角度から考えてみよう。
ファイザーの試験では、2万1,992人にワクチン接種して8人しか発症しなかったわけだから、その有効率は99.96%ということになる。
一方で、ワクチン接種しなかった2万1,838人も162人しか発症しなかったわけだから、ワクチンを打たなくても99.25%は発症しないということだ。
したがって、ワクチンの効果という点で考えたら、99.96% − 99.25% = 0.71ポイント。
仮にワクチンを接種したとしても、その効果はわずか0.71ポイントということになるわけだ。
こう考えると、有効率95%という数字はちょっとおかしいんじゃないか? ということがわかる。
その前提に立った上で、いまだ治験中のmRNAワクチンを打つデメリットと、新型コロナの感染リスクを天秤にかけて、果たして打ったほうがいいのか否かを自分で考えて判断する。
そういうことを自分で考えられるようになるために勉強するんだよ、と僕は子どもに伝えたい。
もちろん、上に書いたことは、今現在の僕の思考レベルだ。
ほかの人から見たら、こいつレベル低いな…と思われるような状態かもしれない。
ただ、レベルが低いなりにも、僕は自分の頭で考えて判断している。
だから、子どもにはこう伝えたい。
お父さんの思考はこの程度のレベルたけど、それでも自分なりにいろいろ勉強して物を考えてきたよ。
だから、キミがこの程度のレベルでいたくないなら、もっと勉強しなきゃね!と。(笑)
それでは今日はこの辺で!
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「優しさ」と「本音」の時代
最近はテレビを見なくなったので、いわゆる第7世代と言われる芸人のことはほとんど知らない。
でも、僕はお笑いが嫌いなわけじゃなくて、子どものころは毎週欠かさず『8時だョ!』を見てたし、10代後半には『笑っていいとも』や『ボキャブラ天国』なんかにハマってた。(古い…。笑)
『M-1グランプリ』も最初のころはよく見てたしね。
当時から好きだった芸人でパッと思い浮かぶのは、タモリ、イッセー尾形、明石家さんま、小堺一機、ウッチャン・ナンチャン、サンドウィッチマン、中川家、東京ダイナマイト、といったところかなぁ。(やっぱ古い…。笑)
逆に苦手な芸人は、ビートたけし、とんねるず、ダウンタウンあたり。
決して、ビートたけしや、とんねるず、ダウンタウンが面白くないわけじゃなくて、僕個人の感覚として好きになれないという感じかな。
で、今日こんな記事を読んだ。
ダウンタウンが苦手な僕は『笑ってはいけない』をちゃんと見たことがないんだけど、この記事に書かれてる「暴力的な笑い」ということについてはちょっと違和感があった。
この記事の趣旨は、「肉体的な痛みを伴う暴力的な笑い」が時代に合わなくなってきているということだと思うんだけど、それはちょっと違うんじゃないか?って思う。
もちろん「暴力」や「痛み」は否定されて当然だけど、ポイントはそこじゃない気がする。
ちょっと話が変わるけど、最近はいろんなタレントやお笑い芸人がYouTubeでチャンネルをつくってるよね。
その中で一番人気がある芸人って誰だと思う?
調査の仕方によっても変わると思うし、これは男性に対する調査だからアレなんだけど、“男が選ぶ「YouTubeが面白いと思うお笑い芸人」ランキング” では、、、
第1位は、なんと、、、
江頭2:50!!!
詳しいランキングはこの記事を見てもらいたいんだけど、エガちゃんは2位以下を圧倒的に引き離す、ダントツの1位なの。
で、実を言うと、僕も今年に入ってからエガちゃんのチャンネルはよく見てるんだよね。(笑)
だけど、かく言う僕も、以前は、江頭2:50というと「うるさくて暑苦しくて下品なキワモノのオッサン」というイメージしかなかった。(笑)
でも、今、僕の彼に対するイメージは全然違う。
もちろん、今でもかつてのような身体を張った芸をやることは多くて、というか常に身体を張ってて、やってることは以前とあまり変わらない。
なのに、江頭2:50に対するイメージは以前と全く違ってて、正直、尊敬すらしてる。
それはなぜかというと、YouTubeを見たから。
テレビ番組は尺の問題があるから、一人の芸人がテレビに映って発言できる機会はほんの少ししかなくて、その人の人間性まで知るのはなかなか難しい。
だけど、YouTubeは時間がいくらでも使える分、人となりがモロに出てしまうんだよね。
で、エガちゃんは、人間性が本当に素晴らしいの!
飾らないから裏表がなくて、優しさに溢れてて、決して媚びたり忖度したりしない。
やってることは下品で、しょうもないことが多いんだけど(笑)、人間性が素晴らしいからファンになっちゃうんだよね。
で、最初の話に戻ると、冒頭に挙げた記事では「肉体的な痛みを伴う暴力的な笑い」が時代に合わなくなってきている、ということだった。
でも、エガちゃんの番組では「肉体的な痛みを伴う暴力的な笑い」も少なくない。
それなのに、多くの人から支持されている(チャンネル登録者250万人)のはなぜなのか?
ダウンタウンやビートたけしが苦手な僕が、エガちゃんを好きなのはなぜなのか?
それはやっぱり、人間性に尽きると思う。
エガちゃんには優しさがある。そして、ウソがない。
一方で、ダウンタウンやビートたけしには「優しさ」をあまり感じられないし、逆に「腹黒さ」を感じてしまうんだよね。
(もしかしたら違うのかもしれないけれど、それをうかがい知れない)
記事で書かれている「暴力」とか「痛み」というのは表面的なものであって、実際はその根幹にある「冷酷さ」や「ウソ」が時代に合わなくなってきていることが『笑ってはいけない』の休止につながってるんじゃないかと僕は思う。
つまり、優しさや思いやりが欠如したものが受け入れられなくなっている時代。
そういう意味で考えると、世の中はどんどん良くなってきてるなぁと、僕は改めて感じる。
ちなみに、エガちゃんの「優しさ」はどの動画を見ても随所に感じられる。
特に、番組スタッフである「ブリーフ団」への接し方を見てると、この人はホントに優しい人なんだろうなぁって思う。
とはいえ、エガちゃんアレルギーの人も多いと思うから(笑)、見たことない人には、まずは万人ウケしそうなこの動画をオススメするよ。
あと、「ウソがない」という点では、このシリーズも面白いと思う。
こんな巨大スポンサーの商品をこき下ろすタレントは他にいないんじゃないかな?(笑)
良かったら見てみてね!
それでは今日はこの辺で!
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人生の “ベース” はどちら?
昨日、連休明けの職場の朝礼で、社長がこんなことを言っていた。
「3連休でリフレッシュできたと思うので、今日からまたしっかり仕事に励んでください」と。
僕は、この言葉にはとても違和感があった。
その場にいたメンバーの中で違和感を持ったのは僕だけだと思うけど。(笑)
僕がなぜ違和感を持ったかというと、社長の言葉の根っこに「仕事」をベースにした考え方があると思ったからなんだよね。
僕たちの暮らしは仕事というのがベース(基礎)であって、それを支えるためにプライベートな時間がある、という考え方をしているんだと思う。
もちろん、給与所得者の多くは、1日の生活時間の大半を仕事に拘束されている。
睡眠時間を除いた1日の活動時間が16時間として、通勤時間なんかを含めると、1日10時間くらいは仕事に拘束されている人が多いんじゃないかな。
そういえば以前にこんな記事を書いたこともあった。
つまり、1日の大半が “仕事時間” だとすると、人生というのは仕事がメインであって、プライベートは仕事時間の隙間で楽しむもの、という考え方をしちゃうのも仕方ないのかもしれない。
でも、本当にそうなんだろうか?
僕らの人生は仕事をするためにあるんだろうか?
あ。もちろん、「仕事が大好き! 仕事こそが生きがいだ!」という人もたくさんいると思うから、そういう人の場合はちょっと違うかもしれない。
特に自営業者や経営者は、プライベートな時間と仕事の時間が混濁してる場合も多いと思うし。
でも、基本的に、僕らは「仕事」をするために生きてるわけじゃないと思う。
何のために生きているかは人それぞれ違うと思うけど、「私は仕事をするために生まれ、そして仕事とともに死んでいくんだ!」という人は少ないんじゃないかな。(笑)
ちなみに僕は、たった一度のこの人生を思い切り楽しみ味わうために生きている。
だから、僕の人生のベース(基礎)はプライベートな生活、プライベートな時間だ。
家族や友人たちと一緒に過ごす時間や、読書の時間、一人でボーッとする時間、旅行する時間、趣味の時間、そういう自由な時間が僕にとってのベースの時間だ。
そして、そういう自分の自由なベース時間の上に “仕事の時間も一部ある” というのが僕の基本的なスタンス。
おそらく、多くの人にとっても、人生というのは本来そういうものなんじゃないかと思う。
実際にそうなってるかどうかは別として。
僕が、冒頭の社長の言葉に違和感を覚えた理由はそれなんだよね。
別に、仕事をうまく遂行するために連休でリフレッシュするわけじゃない。
僕にとってはむしろ逆で、自分の暮らし(プライベートな自由時間)を楽しむための一つのスパイスとして仕事の時間がある、という位置づけだ。
何をベースと認識しているか?というのは、単純なようで、実は結構大事なことなんじゃないかと思う。
今これを書きながら思い出したんだけど、かつてテレビ局で働いていたとき、下っ端ADだった僕の仕事の一つに、番組の「マスター*1」というのをつくる作業があった。
僕らが当時「マスター」と呼んでいた表は、番組の基本構成となるタイムスケジュールみたいなもので、かなり大雑把に描くとこんなイメージだったと思う。
20年以上前のことだからうろ覚えだけど、番組の放送日時と尺、そしてCMをどこで入れるかということだけを記入したスケジュール表だ。
この「マスター」は番組をつくるかなり手前の段階で作成するので、当然ながら表の中にはCMの枠しか入れられない。
でも、テレビ局やスポンサーにとってはそれで全く問題ないんだよね。
だって、彼ら番組を提供する側にとってはCMこそがベース(基礎)であって、その合間に入れ込むコンテンツは、極端な話(視聴率さえ稼げれば)何でもいいわけだから。
だけど、一般の視聴者にとってテレビ番組というのは、バラエティならバラエティ、ドラマならドラマといったコンテンツを指すよね。
同じ一つの番組であっても、提供者側と消費者側では、それが何をベースにしたものかという認識が真逆になってるというわけ。
これは、いわゆるルビンの壺のように、視点を変えると世界が変わるというのと同じ構造だ。
どちらが間違っていてどちらが正しいというわけではないんだけれど、、、いや、実際はどちらも正しいんだろうけど、自分はどっちの世界を見たいのか(どちらの世界にいたいのか)を主体的に選びたいと僕は思う。
仕事とプライベートの時間のことに話を戻すと、会社(経営者)が考える「ベース」と、従業員が考える「ベース」は違っていて当然だ。
でも、会社の考え方(世間の考え方)に引きずられている人は少なくない気がする。
仮にプライベートな時間に比べて仕事の拘束時間のほうが圧倒的に長かったとしても、どちらを自分のメインとするかは、本人の認識次第のはずだ。
あなたはどうだろうか?
あなた自身の暮らしに関する認識が下の図のどちらになってるか、改めて考えてみるのもいいかもしれないね。(ちょっとわかりづらい図だけど。笑)
仕事時間をベースにした暮らし
プライベート時間をベースにした暮らし
プライベートな時間の隙間に仕事が入ってるのか、それとも仕事の隙間にプライベートな時間があるのか。
あなたはどちらの世界で暮らしていますか?
どちらの世界で暮らしたいですか?
それでは今日はこの辺で!
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*1:本来マスターというのは部署や設備を表す言葉なんだけど、僕らは番組構成表のこともマスターと呼んでいた
月の不思議
今日は、8年ぶりに中秋の名月と満月が重なるらしいね。
全国的に晴れの地域が多いから、月見をする人も多いかもしれない。
あいにく福岡は今晩雨になるらしくて、残念だけど…。
ところで、月は僕らにとって一番身近な天体だけど、実は謎も多いんだよね。
そもそも「月は天体ではない」と言ってる人もいるくらい、不思議な存在らしい。
ということで、今日は月の不思議についてちょっと書いてみるよ。
●月の不思議1:裏側を見ることができない
これは知ってる人も多いと思うけど、月はいつも同じ面を地球に向けているので、地球上からは月の裏側を見ることができないんだよね。
ハンマー投げの選手がハンマーをぐるぐる回してるとき、ハンマーの裏側を見ることができないのと同じような状態だね。
これは、月の自転周期と公転周期(地球の周りを回る周期)が同じだから、そうなってるの。
もし、自転周期と公転周期がほんのちょっとでもズレていたら、こんなことにはならないわけだから、実は奇跡的な確率でそうなってるということになる。
●月の不思議2:見た目の大きさが太陽とほぼ同じ
これもみんな知ってると思うけど、地球から見た太陽の大きさと月の大きさはほぼ同じなんだよね。
もちろん、実際のサイズは太陽のほうが圧倒的に大きいわけだけど、見かけ上はそうなってる。
だから、皆既日食のときなんかは、絶妙な大きさで月と太陽が重なって、日中でも薄暗くなったりする。
具体的に言うと、「太陽と地球」の距離は「月と地球」の距離の395倍で、かつ太陽の直径が月の直系の395倍だから、こういう現象が起きてることになる。
月や太陽の位置が今よりちょっとでもズレてたり、月や太陽のサイズがちょっとでも違ていたらこうはならないわけで、実はこれも、ものすごくレアな確率で起きている現象なんだよね。
●月の不思議3:衛星としてはサイズが異常にデカい
見た目の大きさだけじゃなくて、月はそもそもサイズが大きすぎるということがある。
太陽系の惑星はどれも衛星を持っているけど、通常、衛星は惑星の何十分の1とか何百分の1とかの小さなサイズだ。
それなのに、月は地球の4分の1くらいで、異常に大きいんだよね。
普通に考えると、これだけの大きさの天体が至近距離にあったら、とっくに衝突してるはずなんだけど。
にもかかわらず月と地球がぶつからずにいるのは、月の質量がとっても小さいからで、月の質量は地球の80分の1くらいしかない。
ちなみに、日本の月探査機「かぐや」の調査によって、最近、月の内部には巨大な空洞が複数あることがわかってきたんだけど、これも月の質量が小さいとされてきた理由の一つだと思う。
これ以外にも「月の謎」はいろいろあるんだけど、これ以上書くと、どんどんSF色が強くなっちゃうので、この辺でやめておきます。(笑)
それにしても、公転周期と自転周期がピタリと同じというだけでなく、太陽との距離や直径に関しても奇跡的な確率でそうなっていたりというのはすごく興味深い。
そんなレアな確率で、そんな偶然が起きるものなの?!って。
ちなみに、天文学者の中にも「月は天体ではなくて、表面が金属でできた球体の宇宙船だ」と言っている人がいるらしい。
オカルトや都市伝説好きにはたまらないネタだよね。
ちなみに、その辺は、ナオキマン氏やイチゼロシステムさんが面白い動画を出してくれてるので、興味ある人は見てみると面白いと思うよ。
月って、、、もしかしたら、、、と考えながら見る中秋の名月は、いつもとちょっと違うかもね。(笑)
それでは今日はこの辺で!
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いつもありがとうございます。
今日、はてなブログからこんなメールが届いて、このブログを復活させてから1年経ったことに気づいた。
僕の中では、去年の10月か11月くらいにブログを始めたような記憶だったので、ちょっと驚いた。
しかし、1年経ったとはいえ、気まぐれに書いたり書かなかったりだけど、飽きっぽい性格の僕が1年間よく続いたなぁと、しみじみ思う。
毎日欠かさずブログを書いてる人から見たら軟弱だと思われるかもしれないけど、「〜ねばならない」という思考こそが人類の敵だと思ってる僕からしてみたら、これでいいのだ!(笑)
書きたければ書けばいいし、書きたくないなら無理に書く必要もない。
しょせんブログ。
だけど。されどブログ。
もし誰も読んでくれない、ただの独り言だったら、こんなに長く続けることはできなかったと思います。
いつも読んでくださったり、スターを押してくださる方がいらっしゃるから、それが励みになって1年続けてこれました。
この場、この機会をかりて、心から感謝申し上げます!!
皆様、いつも本当にありがとうございます。
今後も、ますますクレイジーに書き続けたいと思います。(笑)
ちなみに、ちょうど1年前に書いたのはこんな記事でした。
うん。なかなかいいこと書いてる。(笑)
それでは今日はこの辺で!
これからもよろしくお願いします。😊
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希望とは何か?
「希望」という言葉にどんなイメージを持っているかは、人それぞれ微妙に違うかもしれない。
僕自身に関して言えば、「希望」という言葉には、なんというか、薄っぺらさというか、白々しさみたいなものを感じることもあって、積極的に使いたい言葉ではなかった。
ちなみに、辞書ではこんなふうに説明されている。
【希望】
1 あることの実現をのぞみ願うこと。また、その願い。
2 将来に対する期待。また、明るい見通し。(出典:デジタル大辞泉)
どちらにしても、将来的に自分にとって良いことが起きるという願いや期待を表す言葉みたい。
僕もずっとそんなふうに思っていた。
仮に今はそうでなかったとしても、いつかきっと良い状態になる、いつかきっと良いことが起きると思える気持ちが「希望」なんだって。
だけど実際には、良いことが起きるかどうかなんて全くわからないし、現実として望まないことばかりが続くことも珍しくはない。
最愛の人を亡くして悲しんでいる人や、大病を患っている人に対して、「そのうちきっといいことがあるよ」なんて軽々しく言えない。
僕が「希望」という言葉を薄っぺらく感じていたのは、そういう思いがあったからだと思う。
だから僕は、「希望」という言葉が好きか嫌いかと言われると、正直なところ、あまり好きな言葉ではなかった。
でも、以前、田坂広志さんの話を聞いて、自分が考えていた「希望」の概念がガラリと変わってしまったんだよね。
田坂さんはこんなふうにおっしゃっていた。
「希望」とは何か。
いま、この世界には、「悲しみ」や「苦しみ」が溢れている。
しかし、いつか、この世界にも、「良きもの」がやってくる。その「未来」を信じられることを、我々は、「希望」と呼びます。
しかし、「希望」という言葉の本当の意味は、そうではないのかもしれません。
いま、この世界に溢れている「悲しみ」や「苦しみ」。
そのことも含め、すべてのものごとが、この世界に「良きもの」が生まれてくるための深い「意味」を持っている。その「意味」を信じられることを、我々は、「希望」と呼ぶのかもしれません。
(田坂広志/風の便り 第59便)
僕はそれまで、「未来にはきっと良いことが起きる」という期待が持てることを「希望」と考えていたけれど、もしそれが期待できない状態だったら、そこに「希望」はないということになってしまう。
期待が持てないときには「希望」はない、ということになってしまう。
つまり、「希望」という言葉の意味が「未来にはきっと良いことが起きる」という期待なのだとしたら、「希望」の有無は、自分自身がそのとき置かれた環境や自分自身のメンタルに左右されてしまうことになる。
でも、「希望」というのは、おそらくそういうものではないはずだ。
田坂さんがおっしゃるように、「この先どんな出来事が起きたとしても、そこには必ず自分にとって良い意味が含まれている」ということが「希望」だとするならば、自分が今どんな状況にあったとしても、常に「希望」が存在することになる。
人生にはいろんな出来事がある。
嬉しいことや楽しいことばかりじゃない。
恋人にフラれること、受験や就職活動がうまくいかずに打ちひしがれること、大きな病気を患うこと、突然会社をクビになること、事業に失敗すること、大切な人を亡くすこと、思いがけない災害に巻き込まれること、などなど挙げればキリがない。
でも、どんなことが起きたとしても、それは自分にとって「良い意味」を持っている。
その確信。
それこそが希望だ。
希望とは、「きっと良いことが起きる」という期待ではなく、「起きることにはすべて良い意味がある」という確信だ。
「希望」はそこらじゅうに溢れている。
今、この目の前にも「希望」がゴロゴロ転がっている。
今の僕は心からそう思える。
・・・ということで、ここからはちょっと話が変わるんだけど、「希望」という言葉にそんな意味を込めて、Tシャツを作りました。(笑)
そうです、以前みなさんにご協力いただいた、あのアンケートの件です。
こんな季節外れな時期だけど、もしよかったら。(笑)
ちなみに、購入の際の確認画面に「クーポンを使用する」というボタンがありますので、そこでこのクーポンコード【vB2Hb5gv7】を入力していただくと、送料無料でお届けしま~す。
最後に宣伝臭くなっちゃったけど、それでは今日はこの辺で!
shivai !!
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9月。変化の年の、変化の月。
今年の5月にこんな記事を書いた。
数秘術的にいうと、2021年という年は「2+0+2+1」、つまり「5の年」ということになる。
で、数秘術では【5】という数字は「変化・変容」を表す。
ちなみに、今となっては今年4月時点での世の中の雰囲気なんて覚えてないよーという人も多いと思うけど、あの頃までは停滞感のようなものが漂っていて、特に大きな変化は感じなかったんだよね。
そういえば、オリンピックが開催されるかどうかもまだわからない状況だった。
だけど、五月の【5】は変化を表すし、2+0+2+1に5を足すと10で、1+0=1で、【1】は「スタート・始まり」を意味するので、五月あたりから変化が始まるんじゃないかなぁなんていうことを、僕はそのときブログで書いた。
そしてその記事の中では、
とはいえ本格的な変化のピークは今年の九月からなんじゃないか?
なぜなら、2+0+2+1に九月の9を足すと14で、1+4=【5】だから。
って、最後に書いていた。
8月末現在の今、ここ数カ月間を振り返ってみると、4月頃までに比べて世の中はかなり変化してきてると感じる。
国内では7月以降、変異種の影響で新型コロナの感染者数が爆発的に増えている。
8月は記録的な豪雨にも襲われた。
そんな状況の中でオリンピック、パラリンピックを強行開催した菅政権の支持率はガタ落ちしていて、秋の衆院選に向けて一波乱ありそうだよね。
海外ではアメリカと中国の対立が深刻化していて、アフガニスタン情勢も緊迫。
その対応を巡ってアメリカ国内ではバイデン大統領の立場が揺らいでいる。
北朝鮮は不気味に沈黙してるけど、お隣の韓国経済はかなりヤバい状態になってきてる。
そして海外でも異常気象が続いていて、中国やヨーロッパ各地での大洪水、アメリカの干ばつ、ブラジルの大寒波などなど、何十年に一度というレベルの大きな災害が立て続けに起きてる。
もちろん、海外でも新型コロナのデルタ株が猛威を振るっていて、感染の再拡大が収まらない。
今日は、南アフリカでの新たな変異株のニュースも目にした。
そんな中で、いよいよ数秘【5】の2021年9月が始まるわけだ。
日本ではオリンピック・パラリンピックという一大イベントが終わるけれど、経済はぐちゃぐちゃで、国の膨大な借金は膨らむ一方。
長年続くデフレの影響などで国力ははどんどん落ちていってる。
少子高齢化問題に解決の糸口は見つからない。
貧富の格差など二極化は急速に進んでいると言われている。
新型コロナによる混乱もしばらくは収まりそうにない。
毎年のように大きな災害に襲われ、巨大地震は今この瞬間に来てもおかしくないと言われてる。
にもかかわらず、政治や行政の劣化が著しい。。。
なーんてことを考え始めると、ネガティブな話はいくらでも出てくるよね。(笑)
でも、大事なのは何が起きるか?ではなくて、起きたことにどう向き合うか?だ。
何が起きたとしても、それをどう捉えるかは自分次第。
どれだけ大きな変化が起きようと、僕らはそれを体験するためにこの地球にやってきたわけだから。
視点や視座を変えて、視野を広げてその状況を楽しめばいいんだ。
変化は楽しい。
変化があるからこそ生きている意味がある。
だって、変化のないロールプレイングゲームなんて最悪だよね?
わかる人にはわかると思うけど、ドラゴンクエストで、ずーっとラダトーム城の周りでスライムを倒し続けるだけの人生なんてつまらないもんね。(笑)
次々と強敵や難問が出てくるからこそ、それに対処する楽しみがあるってもんだ。
さあ、九月からどんな変化が起きるんだろう?
ちなみに、数秘術的にいうと、「変化の九月」の中でもさらに変化のエネルギーが強い日は9日、18日、27日だと思う。
この3日は、年月日を1桁になるまで足し続けると、どれも【5】になるからね。
まあ、いずれにしても、どんな変化が起きたとしてもそれをどう捉えるかは自分次第。
どんな出来事、どんな状況も楽しもう。
ちなみにちなみに、今回書いた数秘術の話は単なるオカルトかもしれないし、もしかしたらホントかもしれないし、当てはまる人もいるかもしれないし、全く関係ない人もいるかもしれない。
一言でいえば、僕の落書きです。(笑)
ということで今回も、信じるか信じないかは・・・
あなた次第ですっ! ド━━ m9(゚Д゚) ━━ン!
笑
それでは今日はこの辺で。
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