「嫌なオトナ」になってない?
僕は今40代半ばで、おそらくもう人生の折り返し地点は過ぎてる。
気持ち的には二十歳前後のころから変わってないつもりなんだけど、やはりそこはしっかり歳をとってるんだよね。
そのことを一番実感するのが肉体的な衰えかな。
健康診断のたびに数値が悪化したり、今までしなかったような病気にかかったりもするようになったし。
あとは、町内対抗のスポーツ大会なんかでも実感するね。
気持ちだけは若いころと同じなのに、身体がついてこなくて転んでしまったり、怪我をしてしまうことも増えた。
怪我をした後で回復するのにも時間がかかるようになったしね。
それと、もう一つ老いを実感するのが、子どもに対する接し方かなぁと思う。
僕はどちらかというと独立心が強くて反抗的な子どもだったので、僕を押さえつけようとする親や教師をはじめとする大人たちが大嫌いだった。
特に、僕が通っていた中学校は校則が厳しいことで有名で、靴や靴下の色、制服の丈なんかはもちろんのこと、男子は全員、坊主刈りと決められていた。
もちろん体罰は当然のようにあったよね、昭和だったし。(笑)
坊主刈りや靴下の色なんて今考えても意味不明なんだけれど、当時はなおさら違和感と反感を覚えながら生活していた。
そして、もし自分が大人になったら、絶対に子どもを押さえつけたりしない人間になろうと思ってた。
だけど、実際に自分が大人になってこの歳になってしまうと、子どもに自分の考えを押し付けようとしたり、口うるさく言ったりしてしまうことがある。
長女が反抗期に入ってからは特に、伝え方やタイミングに気を配ったりはしてるつもりなんだけど、ついついやかましく言ってしまうこともある。
まさに、「自分がなりたくないと思ってた大人」になってしまってるわけだよね。
それを気づかせてくれるのがテンジロウさんのブログで、僕はこの記事を読むたびに身が引き締まる思いがする。
よかったら、ぜひ読んでみてほしい。
自分と家族のことをここまでさらけ出して記事にされているテンジロウさんの勇気を、僕は心からリスペクトする。
程度の差こそあれ、こういう経験をしたことのある親は少なくないんじゃないかな。
そして、人類は太古の昔からこういうことを繰り返してきたんだろうと思う。
でも、いくら子どものためを思って言っているとはいえ、伝えたいメッセージが相手に届かなかったら意味がないんだよね。
メッセージは届かないわ、子どもとの関係は悪化するわじゃ、いったい何をやってるのかわからなくなる。
むしろ、最初から何も言わないほうがマシなのかもしれないとすら思う。
とはいえ、何も言わないんだったら一緒に暮らしている意味はないし。
だから結局のところ、まずは冷静に話を聞き、相手の気持ちを考えつつこちらの思いも伝えるという、基本的なコミュニケーションが大事なんだよね。
相手に「子ども」というレッテルを貼って接するのではなくて、人と人としての通常のコミュニケーションが行われれば、もっと良好な家族関係を築くことができるんだろうと思う。
そのためにも、将来的に子どもとどういう関係を結んでいきたいのか、自分が目指しているのはどこなのか、ということを明確にしておく必要があるんだろうと思う。
手遅れになる前に。
まずは子供の反論を許せる大人になろう。
話はそれからだ。
(「テンジロウのブログ」より)
身に染みる。
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「失敗」はあり得ない。
何か行動しようとするとき、「失敗」を恐れて動き出せなかったり、「成功」にこだわるあまり本来の力を発揮できなかったりすることがある。
そして、何かがうまくいかなかったときに、「失敗」したと感じて落ち込んだり絶望したりすることもある。
でもね、スピリチュアル的な観点から言うと、実は「失敗」なんてあり得ない。
それはなぜかというとね。
僕らが「失敗」という言葉を使うとき、それは思いどおりの成果が得られなかったり、望んでいたことが叶わなかったりすることを指す場合が多いよね。
思いどおりにならなかった。だから失敗。
やりたいのにできなかった。だから失敗。
だけど、ここでもっと視野を大きく広げて考えてみたい。
僕らはそもそもなぜこの地球上で生きているのか?ということを。
以前にも書いたことだけど、僕らはこの地球上での体験を楽しむために今ここにいる。
本来は魂の存在である僕らが、あえて自らの周波数を下げて3次元世界にやってきているのは、この物質世界ならではのさまざま経験を楽しむためなんだよね。
それは、ポジティブなことだけではなくて、どう考えてもネガティブとしか思えないようなことであっても、それも含めたあらゆる体験・経験を、この肉体を使って味わうために、今この地球にいるというわけ。
遊園地に行ったときに、心地よいアトラクションだけじゃなくて、あえてスリルを感じるためにお化け屋敷に入ったり絶叫マシーンに乗ったりするのと同じことだね。
そうであるならば、どんなことであれ、この地球上で何かを経験・体験できているというだけで、すべては「成功」なんだよね。
仮に仕事上で大失敗して恥をかくことがあったとしても、それは、「仕事で失敗して恥をかく」という体験に成功している。
受験に失敗して第一志望校に入れず悲しい思いをしたとしても、それは「受験に失敗して悲しい思いをする」という体験に成功している。
一日中ダラダラと無駄に過ごして罪悪感を感じたとしても、それは「ダラダラ過ごして罪悪感を感じる」という体験に成功している。
つまり、楽しいことも悲しいことも、嬉しいことも苦しいことも、すべて僕らは体験するためにここにいるのだとすれば、あらゆることは「成功」だ。
生きてこの地球上で何かを体験したり感じたりしている限り、すべてが成功だ。
なぜなら、僕らはそのためにここに来ているんだから。
だから、地球上で生きている今のこの時間を大切にして、あらゆる経験・体験を味わい尽くそう。
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株とワクチンと私
なんだか、「部屋とワイシャツと私」みたいなタイトルになってしまった。(笑)
いつも、ふわっとした抽象的なことばかり書いてる気がするから、たまには現実的なことも書いてみよう。
日本でも新型コロナワクチンの接種が始まったみたいだね。
アメリカで感染者数が激減してるのはワクチンの影響が大きいみたいだから、日本でも効果が見込めるんだろうと思う。
ただ、僕は今回のワクチンを接種するつもりはない。
子どもたちは年齢的にまだ打てないけど、もし打てる年齢だったとしても打たせるつもりはない。
今日はその理由について書こうと思う。
僕は株をやっているから、リスクについては日常的に考えてるほうじゃないかな。
みんなはどうかな? リスクについてどんなふうに考えてるのかな?
ということで、ここで問題です。
次の3つのケースのうち、一番リスクが高いのはどれでしょう?
①アパートの2階から飛び降りる
②マンションの5階から飛び降りる
③高層ビルの20階から飛び降りる
③を選んだ人が多いんじゃないかな?
でも、投資をやってる人なら、一番リスクが高いのは②だとわかる。
投資においては、リスク=不確実性なんだよね。
だから、答えは②。
①の2階から飛び降りる場合は、ケガをする可能性はあるけど、まず死ぬことはない。
一方で③のように20階から飛び降りると、確実に死ぬ。
どちらも、結果がどうなるかは明確にわかる。
だけど、②のマンションの5階っていうのは微妙なんだよね。助かるかもしれないけど、もしかしたら死ぬかもしれない。
わからない。
つまり “不確実性が高い” ということなの。
だから、投資の世界では②が一番ハイリスクということになる。
ちなみに、③のように確実に負けるとわかっている場合はそれを選択しなければいいだけだから、投資ではある意味ノーリスクなんだよね。
じゃあ、ここでコロナワクチンの接種に関する「リスク」を考えてみよう。
コロナワクチンは安全だと言われているけど、長期的スパンで見た場合の副作用・副反応というのは、まだ全くわからない。
通常、薬品の開発にはかなり長い年月がかかるんだよね。
開発から販売に至るまで10年程度かかるのが普通だし、長い場合は20年近くかかるケースもある。
薬の副作用・副反応というのは、投薬後何年も経ってから出てくるものがあるので、それを見極めるための試験には長い時間が必要なんだよね。
何年もかけて臨床試験を重ねた薬品であっても、その過程で危険性が見つかったために開発を中止せざるを得なくなった、なんていうケースは決して珍しくない。
そう考えると、今回のワクチンに関しては、ウイルスが蔓延してから1年も経たずに販売されるという極めて異例の状態だよね。
新型コロナの感染に効果があるということは確実みたいだけど、長期的なスパンで考えたときに副作用や副反応があるかどうかは “まだわからない” というのが実態だと思う。
実際、厚生労働省のホームページでは、新型コロナワクチンの安全性についてこんなふうに書かれている。
本ワクチンは、新しい種類のワクチンのため、これまでに明らかになっていない症状が出る可能性があります。
つまり、「リスク=不確実性」という観点で見た場合、今回の新型コロナワクチンは現時点においてハイリスクなものといえる。
一方で、投資の際に忘れてはいけないものとして、「リスクリワードレシオ」という考え方もある。
これは一言で言うと、リスクに見合ったリターンを得られるのか?ということ。
例えば株価が1万円の株があるとするね。
この株を買った場合、価値が0になって1万円の損失が出る可能性があるけど、逆に2万円まで上がって1万円の利益も見込めるという場合、上下ともに1万円の幅があるから、リスクリワードは1:1ということになる。
仮に、1万円損する可能性があるけど利益は3万円見込めるという場合のリスクリワードは1:3ってことになる。
逆に、1万円の損失可能性があるのに利益は5,000円しか見込めないという場合は、リスクリワードが2:1ということになる。
つまり後者の場合は、利益の見込みに比べて損失可能性の幅のほうが大きいから、リスクに見合わないっていうことだ。
じゃあ、今回のコロナワクチンを、このリスクリワード的に考えるとどうなるだろう?
コロナワクチンのメリットは2つある。
- 感染リスクを抑える。
- 重症化を防ぐ。
一方で、新型コロナウイルスに感染した場合のデメリットは大きく分けて3つある。
- 最悪の場合に死に至る。
- 後遺症が残るかもしれない。
- 周囲の人にうつしてしまうかもしれない。
こうやって、ワクチンによるメリットと、感染した場合のデメリットを天秤にかけてみればいいと思う。
そのとき、日本の場合は致死率が低いとか、高齢者や基礎疾患を持つ人は重症化しやすいといったことも含めて考える必要があるけどね。
それで、明らかにメリットのほうが大きいと思えばワクチンを打ったほうがいいし、デメリットのほうが大きいと思えば打たなくていいと思う。
例えば、自分が比較的高齢で基礎疾患も持っていて、周囲にも高齢者がいるような場合であれば、ワクチンを打つメリットのほうが大きいかもしれない。
一方で、特に基礎疾患などない一人暮らしの学生であれば、ワクチンを打つことによるデメリットのほうが大きくなってしまう。
もちろん今回の場合、ワクチンを打つというのは自分自身のことだけではなくて、社会的な側面も大きいから、それを考慮する必要はあるとは思う。
みんながワクチンを打てば、感染の広がりを抑えられるもんね。
でも、そのことと、自分の将来の “不確実性” とを天秤にかけたときに、果たしてどうなのか。
十分な臨床試験が行われていない遺伝子操作ワクチンを打つことの長期的な「リスク」をどう判断するのか。
それは、個人個人が置かれた状況によって異なると思う。
ただ、僕自身は今の段階ではワクチンを打つつもりはない。
リスクリワード比率がとても悪いからね。
ワクチンを打つか打たないか、いろいろな考え方があるとは思う。
でも、打つにしろ打たないにしろ、周囲の人の目を気にしたり、社会の雰囲気に流されたりするのではなくて、しっかりと自分の意思で決めたいね。
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「豊かさ」をもたらすのはお金だけじゃない【バシャール ゼミ No.5】
今のこの世の中では、お金さえあればある程度のことは何でもできる。
逆に言えば、お金を持たずに生きていくことはかなり困難だから、ついついお金に振り回されがちになってしまう。
現代人の多くが、ある意味、「お金」を中心にして生きているんじゃないかな?
だけど、よく考えたら、僕らはお金そのものが欲しいわけではなくて、お金によって手に入れることができる「豊かさ」や「幸せ」を求めているはずだよね。
すごく極端なことを言えば、お金がなくても毎日好きなこと・したいことを思う存分できて、それが生涯保証されているとしたらどうだろう。
別にお金なんて要らないよね。
だけど、僕らは「豊かさ」=「お金」と考えてしまいがちだと思う。
だから、「豊かになりたい」=「お金が欲しい」という思考になってしまう。
ちなみにバシャールは、豊かさというのはお金だけじゃないよ、と教えてくれている。
お金に固執すると、それ以外の豊かさを受け取れなくなってしまうよ、と。
「豊かさ」にはさまざまな形態があります。
しかし、今回は、あなた方が現実で体験する5つの主要な「豊かさ」を紹介します。
これによって、皆さんがこれまで教えられ信じ込んできた「豊かさ」だけが「豊かさ」の象徴ではないということが徐々にわかってくるでしょう。
あなた方の世界で最も一般的な「豊かさ」は5つあります。
それは、お金・交換・贈与・シンクロニシティ・ひらめきです。
しかし、あなた方の星では、お金以外の豊かさの扉を閉じている人が多いのです。
それは、お金以外のものでは自分の望みは叶わないと思っているからです。
しかし、実際には他の豊かさのほうがより楽に望みを叶えてくれることが多く、お金よりも早く、必要な物やサポートを与えてくれたりするのです。
そして、これからお話しするのがその基本的な仕組みです。
あなたが心からワクワクすることをやるとき、あなたがそのワクワクを行動し続けるために必要なサポートは、通常、先ほど紹介した5つの豊かさの組み合わせでやってきます。
それは、2つのときもあれば、3つや4つのときもあります。
いずれにしても「組み合わせ」なのです。
ある特定の豊かさだけが毎回来るわけではありません。
ですから、すべての形態の豊かさをオープンに受け入れるほうが、必要なサポートを必要なときに得るためにはより効率的であることが多いのです。
例えば、あるとき突然、少額のお金がどこかからやってきて、そこにシンクロニシティが重なったり、または、誰かから贈り物を受け取ったり、何らかのインスピレーションを得てあなたの能力がアップしたり、既に持っているものを何かと交換することで、あなたは必要なことを必要なときにやり続けられるようになるのです。
つまり、あらゆる形態の豊かさをあなたが柔軟に受け入れることで、その合計があなたに必要な豊かさの100%になるようにするのです。
通常は、そうすることがあなたにとって最も楽な方法なのです。
ですから、ぜひこの仕組みを活用してください。
これは、あなたが選べるものなのです。
あなたには、いつでもそれを選ぶ力があるのです。
そして、あなたはすべての形態の豊かさを体験することになり、あなただけの流れに乗ってこの世界をスムーズに進むことができます。
そして、人生があなたのために用意している軽やかさと喜びを体験できるでしょう。
(バシャール)
つまり、「豊かさ」というのはお金だけではなくて、少なくとも5つの形態があるということ。
- お金
- 交換
- 贈与
- シンクロニシティ
- ひらめき
僕らはお金そのもの(紙や金属)が欲しいわけではなくて、お金によってもたらされる「豊かさ 」を求めているわけだから、やってくる「豊かさ」をお金に限定せずに、その枠を広げたほうがいいかもしれない。
言ってみれば、豊かさのポートフォリオを多様化するということかな?
もし、「豊かさ」=「お金」と考えているとしたら、自分が望む豊かさを手に入れるためには、【お金100%】という形で手に入らないと、満足できないことになる。
だけど、豊かさにはいろいろな形態があるということがわかっていれば、例えば、【お金50%・贈与20%・シンクロニシティ30%】みたいな形で受け取ることができるかもしれない。
(A)お金100%
(B)お金50%・贈与20%・シンクロニシティ30%
どちらのポートフォリオのほうがより安定的で豊かか?というと、やっぱり後者のほうだろうなぁ。
ポートフォリオは多様化するのがセオリーだしね。(笑)
自分は「お金」の先に何を求めているのか?
そして、それは「お金」以外のどんな形でやってくることができるのか?
そんなことを意識しながら生活してると、受け取るものが変わってくると思う。
せっかくの人生なんだから、お金だけじゃない、いろんな形の「豊かさ」を味わいたいね。
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楽しみたければ頑張るな。
またそのテーマかよ…って思われそうだけど、今回もまた「頑張らない」シリーズの記事です。 (笑)
これまでに、いくつ書いたかな?
パッと目に留まっただけで5つも書いてた。(笑)
まあ、それはいいとして。
先日こんな記事を読んだんだよね。
レスリング日本代表の高谷選手という方に関する記事なんだけど、減量するのをやめたことで純粋に競技を楽しめるようになった、という内容。
レスリングに限らず、柔道やボクシングなど格闘系の競技では、体格によるハンデキャップをなくすために、体重別の階級に分かれてる。
そして、選手たちは少しでも有利な条件で戦うために、現状よりも下の階級に入ろうとするんだよね。
だから、相手選手と戦う以前の段階で「減量」との激しい戦いがあるというわけ。
だけど、これって競技そのものとは全く関係のない戦いなんだよね。
レスリングにしろボクシングにしろ柔道にしろ、その競技と減量はもともと何の関係もない。
本来、選手は、競技のことを研究したり、テクニックを磨いたり、トレーニングを重ねたりして競技そのものへの関与を深めていくわけだよね。
だけど、減量という競技とは何の関係もない要素の比重が高まることで、競技そのものを楽しめなくなって、辛くなる。
そうなると、もはや何のためにやっているのかわからなくなると思う。
だから、高谷選手は減量を放棄した。
競技の本質と関係のないことを「頑張る」のをやめた。
それによって、レスリング本来の面白さに目覚めて、純粋に競技を楽しめるようになったそうだ。
減量がないと心に余裕ができて、レスリングに取り組む意欲が変わってきます。
減量があると、普段から体脂肪が何%で何カロリー消費してなど、いろいろと考えながら練習しなければいけないのですが、僕らがやっているのは体重をコントロールする競技ではなくレスリングです。
レスリングで勝つためにやっているのですから、体重にとらわれすぎるのではなく、レスリングのことを考えるべきだと思います。
(中略)
最近になって本当にレスリングって面白いなと思うようになってきたんです。
以前は感覚だけでやっていたのが、今は相手の動きや自分の体の動かし方を理解し、ポイントを取るまでの道筋を理詰めで考えるようになりました。
何となくやっていた部分がなくなり、レスリング全体をしっかり見てマッチメイクする感じになっています。
何かを続けていると、次第にいろんな要素が出てきて目移りして、そのうち何をやっているのかわからなくなることがある。
そして、当初の目的とは関係のない、見当外れなことに注力して頑張って、疲弊していく。
僕自身そういうことは何度も経験したし、そうなっちゃう人を何人も見た。
自分は本当は何がしたいのか、目的は何なのか。それが明確になっていれば、無意味な「頑張り」は必要なくなる。
本当にやりたいことをやっているときは夢中になって没頭するので、傍から見るとすごく頑張っているように見えても、当の本人は全然頑張っていないという状態になる。
頑張るという行為は「減量」と同じで、本質からズレていてどこかに無理があると思う。
そして、無理が重なると人は壊れる。
だから僕は、頑張ろうとしなきゃできないことはやらないほうがいいと思うんだよね。
頑張るヒマがあるなら、人から止められてでもやりたいと思うことに没頭したほうが何百倍もいい。
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クラブハウスで感じた「制約」こそが強みという話。
前回も書いたけど、数日前にクラブハウスに登録して以来すっかりハマっちゃって、睡眠不足が続いてます。(笑)
今はサービス開始直後の黎明期だからか、とにかく参加者の熱量がすごいね。
まあ、それはいいとして。
クラブハウスっていうのは、一言でいえば「アーカイブが残らない音声SNS」で、全員参加型のラジオって言ったほうがわかりやすいかな?
インターネットがこれだけ爆発的に普及したのって、やはり「時間と空間を超えられる」という特性によるところが大きいと思うんだよね。
ネット上に乗せた情報にはいつでもどこからでもアクセスできるという特性が、世界中のいろんなものを繋ぐことになった。
例えば僕が書いているこのブログは、昔で言えば「瓦版」とか「チラシ」みたいなものだよね。
もしインターネットがない時代にこういう書き物を人に読んでもらおうと思ったら、自分で瓦版やチラシを刷って、外に出て手渡しで配らなきゃいけない。
でも今は、部屋の中でチャチャっと書いてネット上にアップすれば、空間的な制約を超えて世界中の人が見ることができるし、時間にとらわれずに365日24時間読んでもらえる。
はてなブログが存続してさえいれば、僕が死んだ後でも誰かがこれを読むことができるわけだよね。
そういう意味でインターネットは時空を超えたメディアと言えると思う。
でも、だからといって何の制約もないサービスやツールっていうのは、実はあまり面白くない。
あえて制約をつけることで特徴が浮き彫りになって、それこそが強みになってたりするんだよね。
クラブハウスの場合は、音声でしかやり取りできないというのと、アーカイブできない(記録に残らない)という大きな制約がある。
アーカイブできないというのは、インターネットの大きな特徴である「時間を超える」というメリットを放棄してるんだよね。
その時間にアクセスしないと二度と聞けないわけなので。
そういう意味で、クラブハウスはかなりチャレンジングなサービスだと思う。
だけど、記録に残らないからこそ、参加者は気楽に話をすることができるんだよね。
Twitterの場合は、140文字(英語は280文字)しか書けないという大きな制限があることが特徴。
そもそも、Twitterはミニブログという位置づけなんだよね。
ブログとなるとハードルが高いからなかなか継続できないけど、Twitterは140字という文字数制限のおかげで気軽にツイートすることができて、結果的にこれだけ普及したんだと思う。
Facebookの場合は、実名で登録しなきゃいけないというのが最大の制約かな。
でも、実名だからこそ、Twitterと違ってネガティブな発言や誹謗中傷が渦巻かない場になってると思うんだよね。
そう考えるとさ、「制約」っていうと一見ネガティブにとらえられがちだけど、実はそういうものでもないのかもしれない。
そういえば、以前こんな記事を書いたこともあった。
制約という、一見「弱み」に見えるものこそが素晴らしい特徴であって、それは考え方一つであっという間に「強み」になっちゃうんだろうな。
いい大学を出ていないとか、大企業に勤めていないとか、お金がないとか、運動神経が鈍いとか、友達がいないとか、これといった趣味がないとか、彼氏・彼女がいないとか、背が低いとか、ルックスがいまいちとか、アレとかコレとかとか、、、
指折り数えようと思えば、不自由なことっていくらでもあるよね。
だけど、自分が「弱み」だと思い込んでいることや、そこから生じる制約を、ポジティブな特徴として活かそうとすることが、この人生の楽しみ方の一つなのかもしれない。
そして、そうやって楽しんでいれば、思ってもいなかった結果が得られたりするんだと思う。
制約を楽しめるようになれたら、もう人生の達人だよね。
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クラブハウスは「風の時代」のSNS?
最近、急に話題になってるスマホアプリの「クラブハウス」。
僕みたいに友達の少ない人間は一生招待してもらえないだろうと思ってたんだけど、心優しい知人が招待してくれて使えるようになった。(笑)
クラブハウスっていうのは、一言でいえばオンラインの音声パネルディスカッションかな。
比較的有名な方々が少人数で会話しているのを、遠巻きで大勢の人たちが眺めているような感じ。
あるいは、有名人同士が居酒屋で喋ってるのに聞き耳を立ててるようなものかな?
で、希望すれば、その会話している人たちの輪に加わって自分も参加できるケースがあると。
といっても、まだトータルで2~3時間しか使ってないからわからないんだけど、今までのSNSにはなかった面白さがあるね。
で、使っているうちにふと思い出したのが、あまね理樺さんのチャネリングメッセージ。
2020年の12月末から、占星術的には「風の時代」に入ったと言われているんだけど、じゃあ「風の時代」になるとどうなるの?っていうことについて、あまねさんが宇宙から降ろしてくれたメッセージ(の一部)がこんな感じだった。
人々のコミュニケーションの質が変わってきます。
今までは、わりと雑多にいろんな層の人たちと巡り合える機会がありました。
これは「地の時代」の特徴で、種々多様な人たちが、職場とか学校とかコミュニティとかお店のような「場」に集まり、そこでの交流が起きていた時代です。
けれども、これから「風の時代」になっていくと、そういった機会は今までと違って激減していって、そうではなく、自分たちの持っている情報、波動、興味の範囲、生き方、価値観などを中心にしたコミュニティがどんどん発達していくでしょう。
これが「風の時代」の大きな特徴で、自分自身の持っている時間、お金、エネルギーとか、そういう資源を自分の好きなところに特化して集中していくこと、そして自分自身の内なる情報につながっていくことがとても大切な時代になってきます。
それによって、すごく純粋に「自分」に戻っていったり、自分自身の波動を取り戻したりしていくので、それ以外の人たちとの接触がそもそも減っていきます。
クラブハウスは他のSNSに比べると、興味関心が近い人同士が集まって話したり、情報を交換したりしやすいアプリだと思う。
風の時代に入った途端に、それを象徴するようなSNSが急速に普及してるというのが面白いなぁと思った。
Twitterのように多種多様な人たちがうごめくものではないからネガティブな感情が充満していないし、Facebookみたいにマウントを取り合うような白々しさもないので、とっつきやすい感じがする。
ただ、このアプリが今後TwitterやFacebookのように広く世の中に浸透していくのか?というと、現状のままではちょっと難しそうな気もする。
今は物珍しさからたくさん人が集まっているけど、どちらかというと年齢層が高めなんだよね。
爆発的に広がるサービスの多くは10~20代の若者から広がることが多いと思うんだけど、それに比べるとクラブハウスの中心世代は今のところ30~40代じゃないかなぁと思う。
そう考えると、そのうち「意識高い系」と言われるような一部の人たちだけのSNSになってしまう可能性がなくもない。
まあ、その辺のところはどうなるかわからないけど、こういう新しいSNSが出てくると、自分の世界が広がるからワクワクするね。
個人の情報発信力がどんどん高まることで、ますます既存のピラミッド構造が崩れて横に広がっていってるように感じる。
そういう意味で、「風の時代」が加速していってるんだろうな。
世界はどんどん面白くなっていく。
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操る側の論理。
僕は以前、スマホゲームをつくるベンチャー企業に勤めていたことがある。
とはいえ、クリエイターではないから、直接ゲームづくりに関わっていたわけではないんだけどね。
僕はマーケティングやプロモーションが専門なので、とにかく、できるだけ多くの人にゲームのことを認知してもらって、インストールしてもらって、継続してプレイしてもらって、さらには課金してもらうための方策を考えるのが仕事だった。
そのためにいろんなことを企画して施策を打つんだけど、当然ながら、何となくいい感じの施策をテキトーにやる、というわけじゃない。
売上アップという最大の目的を達成するための指標(KPI)を設定して、その数値を上げるための施策を繰り出していくわけなんだよね。
で、当時僕らのプロジェクトでは「継続率」というのを最優先の指標に設定してた。
継続率っていうのは、簡単に言えば、ゲームをスマホにインストールしてくれたユーザーが、やめることなくずっと継続して遊んでくれている状態を表す数値。
スマホゲームは無料で遊べるものが無数にあって、しかも次々と新作がリリースされるから、多くのユーザーは面白いゲームを求めて次々と新しいものをインストールする。
逆に言えば、ちょっと面白くないと思ったら今やっているゲームをやめて、すぐに別のものに移ってしまうっていうこと。
任天堂やソニーが出しているようなテレビゲーム型のものと違って、スマホゲームの多くは無料でも遊べるから、簡単にインストールしてもらえる一方で、すぐに捨てられちゃうというリスクがあるんだよね。
だから、いかに継続的にプレイしてもらって、そしてそこから課金へとつなげていくかというのが大事だとされていた。
一言で言えば、いかにしてユーザーをゲームに依存させるか?ってことだ。
前置きが長くなっちゃってごめんなさい。
この「継続率」を上げてゲームへの依存度を高めるためには、もちろんゲーム自体が面白いものであることが大事なんだけど、それだけじゃなくて、そのゲームを取り巻く仕組みによっても継続率を上げることができるの。
で、継続率を上げる上で僕が大事だと考えてたキーワードが「競争」「優越」「貢献」。
まず「競争」というのは、ユーザー同士、あるいはユーザーが所属するグループ同士を競わせることで感情を揺さぶり、ゲームへの意欲を喚起するということ。
普通に自分のペースでプレイしたいと思っているユーザーであっても、「競争」を意識させる、つまりユーザー同士を競わせることでゲームに熱中させて、こちら(運営者側)のペースに巻き込むことができる。
2つ目の「優越」は、競争によってランキングをつけたり、順位によって獲得できるアイテムを限定したりすることによって、上位者や強者が優越感を感じられるようにするということ。
いったん優越感を持ったユーザーは、その優越感を維持するためにますますゲームに依存し、課金の額を増やしていくことになる。
一方で、上位者や強者になれず劣等感を抱いたユーザーは、自分も優越感を持てる立場になりたいと思うようになって、ゲームにのめり込んでいく。
そして、3つ目の「貢献」というのは、ゲーム内のコミュニティで奉仕・貢献することによってコミュニティへの依存度を上げること。
スマホゲームでは、“ギルド” と呼ばれるようなグループをつくって、グループ同士を競わせる仕組みを持っているものがあるんだけど、自分が所属するグループが強くなるためにメンバーが貢献するように仕向ける。
そうやって各メンバーがグループに貢献すればするほどグループへの依存度が高まり、グループ内の結束も高まっていくので、ゲームをやめづらくなるんだよね。
「自分がゲームを辞めると、他のメンバーに迷惑をかけちゃうかも…」という気持ちにさせてしまえば大成功だ。
人間が、他者に貢献することに喜びを感じる生き物だということを利用して、ゲームへの依存度を上げるっていうことだ。
もちろん、継続率を上げるために必要なことはほかにもいろいろあるんだけど、当時の僕が特に重視してたのは上の3つかな。
つまり、何が言いたいかっていうと、ゲームの制作者側は、こんな酷いことを考えながらゲームを制作・運営しているんだってこと。
だから、ゲーム中毒者や、“廃課金者” と呼ばれるような人たちが大量生産されることになる。
そして、これはもしかしたらゲームに限ったことではなくて、世の中のいたるところでこういう思惑を持った人間が、僕らを操ってるのかもしれない。
って、かつての自分を棚に上げて言ってるわけだけど。。。(笑)
無駄に競争させて優越感や劣等感を持たせ、必要以上に貢献をさせる。
それによって集団への帰属意識と依存度を高めて、人をコントロールする。
ブラック企業なんかはわかりやすい例だけど、これはブラック企業に限った話じゃない。
地域コミュニティ、部活やサークル、家庭、学校、企業、国家、、、どれもまさにそんな感じじゃないだろうか?
世の中には、僕らをコントロールしようとする思惑が、そこらじゅうにウヨウヨ漂っている。
だからこそ、意識的に「競争」を避け、「優越感や劣等感」から距離を置き、「貢献」することの意味を考えたい。
かつて人を操ろうとしていた僕自身への自戒と反省を込めてそんなことを思うのでした。
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「着ぐるみ」を着たまま死ぬの?
「本当の自分」「本来の自分」をもっと大事にしたほうがいいんじゃないかな? ということについては、これまでに何度も書いた。
一言で言えば、「〜ねばならない」という他人軸(他者の価値観や既成概念)をできるだけ手放して、自分の人生を生きようよ、ということだ。
- 親として〜すべきだ
- 社会人として〜するのが当然だ
- 〜するなんて常識的におかしい
- 普通は〜しないだろう
- 〜だなんて人としてあり得ない
世間はこんな思考で溢れてる。
そして、それに従って生きている人のどれだけ多いことか。
大事なのは、自分は本当は何をしたいのか? どうありたいのか? 自分にとって最も大切なことは何か? 何をしているときが一番ワクワクするのか? のはずだ。
つまり、大事なのはどんなときでも「自分軸」だ。
たった一度の人生だぜ?
この一瞬一瞬が、もう二度とない時間なんだぜ?
そんな貴重な時間なのに、自分の本当の気持ちを押し殺して他人の考えに従って生きるのかい?
自分の気持ちを抑えて他人の価値観に沿って生きるということは、「着ぐるみ」を着て生きているようなものだ。
そんな、いくらでも大量生産できるような「着ぐるみ」を後生大事にして、幸せなのか?
「着ぐるみ」がどれだけ高く評価されたとしても、中身は空虚なままだ。
「◯◯さんってしっかりしてますね」とか、「キミの仕事ぶりは素晴らしいな」とか、「◯◯さんは立派ですね」なんて言われても、それは「着ぐるみ」が評価されてるだけであって、「本来の自分」が評価されてるわけじゃない。
というか、そもそも自分軸で生きていたら、他人の評価なんてどうでもよくなる。
どんな「成功者」も、大富豪も、自分を押し殺して生きてきた庶民も、いつか「着ぐるみ」を脱がなきゃいけないときがやってくる。
そのとき、人は呆然とするだろう。
自分の人生はいったい何だったんだろうか? と。
しまった・・・もっと自分の気持ちを大事して生きればよかった、と。
長いようでいて、きっと人生はそんなに長くない。
だから、もっと自分を大事にして今を生きよう。
もっと自分自身を愛してあげよう。
人生はそれからだ。
・・・と、今回はお酒を飲みながら、ダーッと記事を書いてみました。
んで、結局何が言いたいかっていうと、カルディの「シチリアン レモンサワー」はめちゃくちゃ美味いってこと。(笑)
超おすすめ! オトナのレモンサワー。(^-^)
ってことで、今日はいつものジョブズの動画でも観ながら1日を終えよう。(笑)
スティーブ ・ジョブズ・スタンフォード大・卒業式スピーチ・2005年
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見えないものが99%
先日、NHKの「冥王星 氷の天体の秘密」という番組を見た。
地球から48億キロという遠く離れたところにある天体の謎を解き明かすという内容だった。
まあ、そのこと自体はどうでもいいんだけど、こういう宇宙に関する番組なんかを見てると、視野が広がるよね。
僕らの日々の暮らしが、自宅や職場を中心にした半径何キロかの中でほぼ完結するとすれば、多くの人は普段とても狭い「世界」の中で暮らしていることになる。
子どもの場合は、おそらく家と学校という、さらに狭い「世界」で生きているんだろうと思う。
だけど、僕らが生きている「世界」はそんな狭い場所じゃない。
当然ながら、日本という国で生きていることはすぐにわかるし、そして、地球上で生きていることも多くの人はわかっている。
ただ、日常生活においては、そこまでの規模で自分のポジション(現在地)を考えていないというだけだ。
そして、さらに俯瞰すると、僕らは太陽系、銀河系、そして無限の広がりを持つ宇宙の中にいるわけだけれど、そんなことまで考えて生きている人はほとんどいないと思う。
宇宙という得体の知れない広大な空間の中で生きていることを想像すると、自分の足元が揺らいでしまうような不安に襲われるから、あえて考えないようにしているのかもしれない。
そういうわけで、僕らは普段、とても狭い「世界」の中で生きている。
さらに、現代人の多くは目から入ってくる情報を重視する傾向が強いから、目に見えるものがすべてだと思いがちだ。
だけど、この広大な宇宙の規模から考えたら、実は目に見えるものなんてほとんどないんだよね。
というのも、最近の宇宙物理学や天文学では、宇宙を構成する物質とかエネルギーの割合について、こんなふうに考えられている。
- 原子等の通常の物質 4.9%
- ダークマター 26.8%
- ダークエネルギー 68.3%
このダークマターとかダークエネルギーというのは、簡単に言うと、“何だかわからないけれど宇宙に存在しているはずのもの” ということだ。
こういう “未知のもの” があると想定しないと、現代宇宙論的に計算が成り立たないらしい。
つまり、僕らが認知できるものは宇宙全体の4.9%しかないということ。
逆に言えば、95.1%は何だかよくわからないということ。
しかもこの4.9%というのは原子でできているものという意味だから、空気のように肉眼では見えない物質や、それこそウイルスのように小さなもの、はたまた地球から遠く離れた巨大な惑星や恒星なんかも4.9%に含まれている。
だから、この4.9%からヒトの肉眼で知覚できないものを差し引くと、僕らの目に見えているものなんて “ほとんどない” と言ってもいいくらいなんだよね。
つまり、この宇宙を構成する99.9999…%以上のものは、僕らの目には見えないということ。
はっきり言ってしまえば、僕らは何もわかってない、何も知らないってことなんだよね。
偉そうなことを言っている学者や政治家や僧侶も、物知り顔で説教する親や上司や教師も、誰も、なーんにもわかってない。
もちろん僕自身もなーんにもわかってない。
それでも、地球上で生きる分には特に困ることもないから知ったふうな顔で平気で生きているわけだけれど、実は何も知らないんだよね。
だけど、もし、そのことを心の底から自覚することができたら、僕らの考え方や生き方はずいぶん変わるかもしれない。
もう少し謙虚に、いろんなことに向き合えるようになるかもしれないね。
「冥王星の謎」を追いながら、ふとそんなことを思ったのでした。
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自死を選んだ人の死後【バシャール ゼミ No.4】
新型コロナの影響で自殺者が増えているというニュースを最近よく目にする。
経済苦によるものが多いみたいだけど、つい数日前には、新型コロナに感染した女性が「自分が娘にうつしたかもしれない」ということを気に病んで自殺したという記事も読んだ。
そういえば、昨年はタレントなど有名人の自殺に関するニュースも続いた。
こういう話を聞くたびに、何ともやりきれない気持ちになる。
僕は就職氷河期ど真ん中の世代だから、一つ上のバブル世代と違って、世の中の景気とか経済的な意味で良い思いをした記憶が全くないんだよね。
そんな社会情勢も関係しているからか、20代から30代の頃にかけて、親戚や知人など身近な人を何人も自死で失った。
老衰や病気でもないのに突然大切な人が亡くなるという喪失感は、耐え難いものがある。
だけど、スピリチュアル的な観点から見て、老衰死や病死と自死には何か違いがあるんだろうか?
バシャールはこんなふうに言っている。
地球というのは、言ってみれば大変難しい学校のようなものです。
人間として転生してきた多くの魂は、地球で転生した後に、高次元の世界や他の文明に転生します。
あなたは人生が終わった後に、次にどのような形で生まれてくるのかを、毎回自分で決めることができます。
今現在の人間としてのあなたは、自分に選択の自由があることを覚えていないかもしれません。
しかし、魂・スピリットとしてのあなたは、自分がどこに行くのかを自分で選択できること、そして、別にどこに行く必要もない、ということも覚えています。
ですから、あなたが死んだ後、次にどのような形でどこに生まれ変わるのかは、あなたが何を経験したいと望んでいるか次第です。
魂としてどのような成長、どのような進化を経験したいか、常にあなたの選択の問題です。
全部とは言いませんが、自殺をする人のほとんどは、また生まれ変わってきて、バランスがとれるまで同じテーマにチャレンジしようとするでしょう。
もちろん、彼らは別に罰を受けているわけではないので、生まれ変わって同じテーマにチャレンジすることが強制されているわけではありません。
しかし、ほとんどの人々は、肉体を離れてスピリットに戻ったとき、「次の人生ではもっとポジティブな解決法を見出すことができるかな? よし、もう一度試してみよう」と思って、同じような環境に生まれ変わることを選びます。
もっとも、それは、なぜ自殺をしてしまったのかという理由にもよります。
例えば、長い間、病気の痛みに苦しんでいて、これからもこの痛みは終わらないだろうとわかっている人が自殺してしまうのと、健康な体がありながら突然自殺した人とでは違います。
そのように例外はありますが、自殺をした人がスピリットに戻って自分の人生を振り返ってみたとき、ほとんどの場合は「なんてバカなことをしてしまったんだろう」というのが第一声です。
スピリットになった存在は気づきます。
そして、「自分が学ぶ必要のあったレッスンを学ぶために完璧な状況だったのに、十分に学ぶことができずに自殺してしまった。もう一度戻って学びなおそう」と思うのです。
だからといって、必ずしもその人が地球上の同じような状況に生まれ変わらなければならないということではありません。
けれども、学ぶべきレッスンを学ぼうとしたとき、似通った状況を選んで生まれ変わるというのはよくあることなのです。
(バシャール)
「自殺をした人間は地獄に落ちる」的なことを言う宗教もあるけれど、バシャールの考え方を聞くと、その点ちょっと安心する。
やはり僕らは自分で自分の人生を選んで、何らかの課題を持って生まれてきているんだろうと思う。
以前書いたように、今の僕らの人生が “地球という大きなテーマパーク” に遊びに来ている状態だとすると、自死というのは、「今日はジェットコースターに乗るぞ~!」と思って意気込んで遊園地にやってきたのに、乗る直前になって「やっぱ怖そうだから、もう帰ろう…」と尻込みして帰宅するようなものなんだろうな。
もし仮に、また生まれ変わることができたとしても、今のこの人生は二度とない、たった一度の貴重な機会。
そうであるなら、この人生を思い切り味わい、楽しんで、寿命を全うしたいと僕は思う。
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神社に「神」はいない。
いつも年明けには家族で初詣に行くんだけど、今年は何となく外出を控えていることもあって、まだお参りに行っていない。
ただ、僕にとって初詣はそれほど重要なイベントでもないので、行かなかったからといって特にどうということもないんだけどね。
僕は宗教を信じていないので、当然ながら神社に「神様」がいるなんて全く思ってない。
それは神社だけでなくて、お寺にしろ教会にしろ、どこでもそうなんだけど。
以前書いたように、僕ら自身が「神」の一部なんだから、「神」に会うために神社に行く必要もないと思ってる。
本当に神に祈りたいなら、神社に行かなくてもどこででもできる。
じゃあ、どうして僕が神社に行くかというと、ただ単に樹木が多くて、良い散歩になるから。
僕にとって神社やお寺というのは、きれいに整備された公園と同じだ。
普通の公園と違って清潔感があるし、静寂を感じられる。
ただ、同時に「気持ち悪さ」もある。
以前も書いたことがあるけど、僕はお寺の生まれで、母方は神主の家系だ。
だから、お寺や神社という「場」が持つ雰囲気はよくわかっているつもり。
だけど、あの独特の雰囲気は、神仏がいるから醸し出されているわけではなくて、お参りに来る人々が放つ “エゴや欲望” のような重たい波動(周波数)によるものなんじゃないか?と思うことがある。
いわゆる「念」っていうやつだ。
そういう意味で、神社やお寺っていうのは清潔感や静寂があるけど、言い知れぬ「気持ち悪さ」も同時に感じる。
だから、僕はお参りしても長居したいとは思わない。
もちろん、あらゆる物質、あらゆる存在は固有の波動(周波数)を発しているから、その神社やお寺が建っている土地や自然環境に何か特別な波動を発するものがあれば、そこがパワースポットになっている可能性はあると思う。
だから、人はそこに何か “普通じゃない雰囲気” を感じるのかもしれない。
でも、そのことと、そこに「神」がいるかどうかは別の話だ。
世の中のあらゆるものは「神」(森羅万象・大いなる源)の一部だ。
野菜だって、ボールペンだって、靴だって、スマホだって、全部「神」の一部だ。
だから、僕らは神社に行かなくても、常に「神」に囲まれて生きている。
っていうか、自分自身も「神」だし。(笑)
そういう意味で言えば、神社ももちろん「神」の一部だね。
でも、それは世間一般で言われている意味の「神」とは違う。
自分自身が「神」であることと全く同じ意味で、神社も「神」っていうことだ。
だから、僕が神社にお参りに行ったら、「神である僕」が「神である神社」と対面するというだけのことだ。
願い事をするような場ではないし、そういう対象でもない。
ちなみに、おみくじはオラクルカードの仲間だと思うよ。
あと、御守りや破魔矢なんかに御利益があるとすれば、それはプラシーボ効果の一種だと思う。(笑)
ということで、今回はなんだか身も蓋もない話になってしまったけど(笑)、僕は、神社やお寺というものは一種の公園で、そこには “自分より上の存在” なんていないと思ってる。
もちろん、これは僕が勝手に思ってることであって、このことが真実だと言うつもりはないよ。
だから、反論されても困っちゃうので、温かく見守ってやってください。(笑)
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