目的はどんどんズレていく。
昨日、ブロガーのテンジロウさんの記事を読んでインスパイアされたことがあったので、今回はそのことについて書いてみたい。
僕は昨年9月にこのブログを始めて、10月ごろから本格的に書くようになって、気づいてみればもうすぐで100記事というところまで来た。
記事数を目標にしていたわけではないんだけど、100本近く記事を書いたなんて、自分でもちょっと信じられない気分。
僕はもともと飽きっぽい性格だし、それに、書くことがそんなにたくさんあるとは思ってなかったからね。
そういえば、そのうちネタが尽きてフェードアウトしちゃうんだろうなぁという予感もあったからか、こんな記事を書いたこともあった。(笑)
この記事が33個目だから、そこから60記事以上も書いたのかぁと思うと、他人事のように感心する。
でも、僕はこのブログを、書きたくないのに頑張って書いたことは一度もなかった。
むしろ書きたい気持ちを抑えるために、あえて書かない日をつくってたくらいなんだよね。
毎日書いていると、書き続けること自体が目的化してしまうし、「毎日書かなきゃ」という無意味な義務感とかプレッシャーが生じてしまうからね。
そもそもこのブログを書き始めたのは、いつか僕が死んだ後で子どもたちが読んでくれたら嬉しいなぁと思ったことがきっかけだった。
だから、自分が本当に書きたいことを書くスタンスで始めた。
それについては、こんな記事の中でも書いた。
だけど、ブログを書き続けていると、連続更新日数が気になったり、アクセス数が気になったり、好評価の数が気になったりと、当初の目的とは関係ない要素がどんどん出てくるんだよね。
そして、アクセス数に一喜一憂したり、アクセス数が上がるような記事を書く誘惑に駆られたりしてしまう。
結果的に、どんどん目的がズレていくことになりかねない。
あ。念のために書いておくけど、これは飽くまでも僕にとっての目的とそのズレの話だからね。
アフィリエイトを目的にして書いている人がアクセス数アップをKPIにするのは当然だと思う。
で、目的がズレるという話だけど、これは何もブログに限ったことではなくて、行動しているうちにいつの間にか目的がズレちゃうことっていうのは多いんだろうと思う。
例えば、「もっと自由に生きたい」と思って会社を辞め、独立して個人事業を始めた人がいるとするね。
で、個人で始めた仕事が順調に進むと、受注が増えてくる。
そして、どんどん忙しくなる。
そのときに、「自分は自由に生きるために独立したんだから」と割り切って、受注量を増やさないという選択ができればいいんだけど、せっかくのチャンスだからといって受注を増やしていく(つまり当初の目的からズレちゃう)と、本来の目的である「自由」がどんどん圧迫されていく。
そして、一人では対応できなくなって、スタッフを雇うことになる。
すると、スタッフの生活を守らなきゃいけないという義務感が生まれてきて、売上を安定させるためにさらに事業を拡大する。
事業を拡大すると必然的にスタッフの数も増える。
そして、スタッフにもたくさん気を遣わなければいけなくなる。
会社を大きくするために株式会社化したら、株主にも気を遣わなきゃいけなくなる。
こうなると、一人でやっていたときは好きな時間に仕事できていたのに、好きな時間に出社したり帰宅することもできない。
そして、株主に気を遣い、スタッフに気を遣い、増えた取引先との関係に気を遣い、資金繰りのことが頭から離れず、様々な課題が目の前に溢れ・・・と、本来の目的であった「自由」はどんどんなくなっていく。
結局、自由に生きたいから会社を辞めて独立したはずなのに、気づいてみれば会社を辞める前より窮屈になってしまってた、なんてことにもなりかねない。
こういうことは、人間生活のあらゆる場面で起きてるんじゃないかな。
だから、「そもそも、自分は何のためにこれをやってるんだっけ?」ということを時々問いかけたほうがいいんだろうと思う。
ちなみに、僕は最近このブログのアクセス数が気になり始めていたので、ここであえて超絶不人気コーナー「宇宙人が教えてくれたこと」シリーズを、さらに強化することに決めた。(笑)
「宇宙人が教えてくれたことシリーズ」はスピリチュアル色が強すぎるからか全然人気がないんだけど、でも僕が本当に書きたいことだからね。
しょせんブログ、されどブログ。
自分の書きたいことを好きに書いたらええんや。
というか、好きに書いたほうがええに決まっとる。
それがこのブログを始めた目的やねんから。
なんで関西弁になっとるんかわからへんけど、関西弁で書きたかってん!(笑)
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「頑張ること」が好きな人の観念。
頑張る必要はない、頑張らないほうがいい、ということについてはこのブログで何回も書いた。
でもやっぱり、人にこういう話をすると、「いやいや、頑張って努力することは必要でしょ」とか「人間は頑張らなきゃだめでしょ」と言われることが多い。
そういう人と話をしていて思うのは、「人は頑張らなければ成長しない」とか「頑張るからこそうまくいく」という強い観念を持ってるんだなぁっていうことだ。
頑張らなくてもうまくいくことなんて、いくらでもあるはずなのに。
ちなみに、ここで僕が言う「頑張る」とは、こういう意味ね。
頑張る
自分が嫌なこと、辛いこと、苦しいことに対して、自己を犠牲にして時間を使うこと。
(ノリズム大辞典)
でも、自分が心の底から信じていることは現実化するので、「頑張らなければうまくいかない」と信じている人には、「頑張らなければうまくいかない現実」があらわれてくる。
そして、またそこで頑張って、その結果うまくいったら、「ほら、やっぱり頑張ったからうまくいったんだ」ということで、「頑張らなければうまくいかない」という観念が強化されてしまうことになる。
そうやって「頑張りループ」がますます揺るぎないものとして確立していくんだろうと思う。(笑)
そして、まるでハムスターのように「頑張りループ」を回り続ける人生になる。
もちろん、そういうのが好きな人はそれをやっていてもいいと思うんだけど、「頑張らなきゃうまくいかない」というのは本当ではない、と僕は思ってる。
ところで、以前に書いたことがあるけど、僕は新卒でテレビ業界に入ったものの、身も心もヤラレてしまって1年で仕事を辞めた。
その後は、東京なのに家賃20,000円(風呂なし・トイレ共同、木造二階建て)の四畳半一間という、学生でも住まないような部屋を借りて、パチスロで日銭を稼ぎながら生きていた。
そんな暮らしをしていたのは1年くらいだったかな。
僕にとっては人生のどん底の期間で、何の希望も生きる意味も感じられずに、絶望感の中をもがいていた。
大学を卒業してからの2年間は、僕なりに必死に頑張って生きていた。
本当に二度と繰り返したくないくらいに荒んだ時期だったんだけど、あの最低な時期を経験したからこそ、今は、何があっても生きていけるという妙な自信がある。(笑)
そう考えると、僕の人生において、あれはあれで意味のあることだったんだろうと思う。
でもね、だからといって僕は、あのとき頑張って良かったとは思わないし、人間は若いころに苦労することが必要だとも思わない。
もしあのときの自分に声をかけられるとしたら、「そんなに頑張らなくていいんだよ。頑張らなくてもスイスイ進める道を探してみなよ」って言ってあげたい。
書いているうちに、元サッカー日本代表監督・オシムさんの言葉を思い出した。
彼は旧ユーゴスラビア出身で祖国の代表監督もしていたんだけど、その時期にユーゴスラビア紛争が勃発した。
彼自身、戦火を逃れるために家族が離散したりと大変な状態だった上に、同じ国内で殺し合いをしている他民族同士のメンバーを、代表チームとしてまとめなければいけないという極めて困難な仕事もしなければならなかったんだよね。
で、そういう過酷な経験をしてきたオシム元監督に対して、こういう問いかけがあった。
監督は、目も覆いたくなるような悲惨な隣人殺しの戦争を、艱難辛苦を乗り越えた。
試合中に何が起こっても動じない精神、あるいは外国での指導に必要な、多文化に対する許容力の高さをそこで改めて得られたのではないか?
つまり、ユーゴスラビア紛争という経験によって、外国で代表監督として成功するための秘訣を得られたのではないか?という問いかけだ。
これに対してオシム監督はこう答えている。
確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。
ただ、言葉にする時は、影響を受けていないと言ったほうがいいだろう。
そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。
そういう戦争が……。
(イビツァ・オシム)
戦争から何かを得られたと言ってしまうと、自分にとって戦争が必要なものだったということになってしまう。
それは肯定できない、とオシム監督は答えているわけだ。
僕の若いころの経験なんて、オシムさんが戦火の中で経験したことに比べたら全然大したことないけれど、それでも、僕もあの時の辛い時期を必要なことだったとは思いたくない。
意味のあることだったとは思うけれど、必ずしも必要だったとは思わない。
ほかにももっと良い方法はたくさんあったはずだし。
「頑張ること」を肯定してしまうと、それが「必要なこと」になってしまう。
だけど、頑張らなきゃできないことは、そっちには行かないほうがいいよ~っていうサインだと僕は思う。
頑張ることでうまくいく場合もあるかもしれないけれど、頑張らずにうまくいくこと(思わず夢中になってしまうこと)をしたほうが、楽しくスムーズに生きることができる。
頑張り続ける人生に疲れちゃった人は、まずは「頑張らなきゃうまくいかない」という観念に気づいて、それを手放すことから始めたほうがいいかもね。
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宇宙人が教えてくれたこと ⑥ワクワクで生きる
今回も、僕の大好きな宇宙人・バシャールが教えてくれたことについて書くよ。
6回目のテーマは「ワクワクで生きる」ということについて。
バシャールは40年くらい前からずっと僕ら地球人にメッセージを届けてくれているんだけど、そのバシャールが最初から一貫して言っているのが、この「ワクワク」で、バシャールの代名詞とも言えるキーワードだ。
最近はいろんな人が、「自分がワクワクすることや楽しいこと、好きなことをやればいいんだよ」って言っているけど、おそらく、それらはすべてバシャールの言葉が原点になっている。
ちなみにバシャールをチャネリングしているダリル・アンカさんはアメリカの人(生まれはカナダ)なので、バシャールは英語でメッセージを伝えてくれているんだけど、英語の「excitement」を訳して日本語では「ワクワク」と言われてる。
本来「excitement」は、直訳すると「興奮」なんだけど、日本人が使う「興奮」とはちょっと意味合いが異なるので、やはり「ワクワク」が適切な気がする。
もう少しかみ砕いて言えば、楽しくて心地よくて、自分を突き動かしてくれるような感覚かな。
だから、必ずしもウェ~イ!と大騒ぎするような気分じゃなくて、静かに燃える情熱の種だったり、穏やかなうねりのような心地よさ、だったりすることもあると思う。
バシャールは、人生をよりよくしたいのであれば、そういう自分の「ワクワク」を追いかけるといいよと言っている。
逆に言えば、人生がうまくいかない(と感じる)のは自分の「ワクワク」を追いかけないからであって、うまくいかせたければワクワクすることを追いかけるだけでいいんだよ、と。
でも、なぜ「ワクワク」を追いかけることがいいんだろうか?
それは、一言で言うと、自分がワクワクすることこそが本来の自分が求めているものだから。
本来の自分っていうのは、宇宙人が教えてくれたシリーズの2回目に出てきたハイヤーセルフのことだね。
もう一人の自分(高次元の自分)であるハイヤーセルフは、僕らより高い視点から僕らの人生を見渡すことができる。
僕らは今しか見えていないけど、ハイヤーセルフには過去も未来もすべて見えている。
僕が山登りをしているとすると、ハイヤーセルフは僕が登ろうとしている山の頂から広く見渡しているような状態だ。
だから、「こっちに進んだほうがいいよ」とか「そっちには行かないほうがいいよ」とか、常にナビゲーションして僕らに教えてくれてるんだよね。
で、「こっちに進んだほうがいいよ」という合図が「ワクワク」であり、「そっちには行かないほうがいいよ」の合図がネガティブな感情だ。
でも、毎日何かに追われるように生きている僕らは、そのハイヤーセルフからの合図に気づかなかったり、気づいていても無視したりしてるというわけ。
だから、目指す山にスムーズに楽しく登りたいのであれば、ワクワクの合図に従って進めばいいってことだ。
なるほど。まあ、いまいちよくわからんけど、ワクワクすることをやればいいっていうのはわかった。
わかったということにしておこう。
でも、自分には、そんなワクワクすることなんてないんだけど・・・
っていう人もいると思う。
それについてバシャールは、別に何か大きな、一生かけて追い求めるようなワクワクが今なくても全く構わないって言ってるんだよね。
今、この瞬間一番ワクワクすることをやればいいんだよ、って。
で、今一番ワクワクすることをやり尽くしたら、その時点でまた一番ワクワクすることをやる、そしてまたその次・・・という具合に、その瞬間瞬間でワクワクすることを追いかけ続ければいいんだと。
「ワクワク」というのは、連なったビーズに糸を通すようなもので、一つのワクワクが次のワクワクを呼ぶという状態が生まれるので、そのシンクロニシティに従っていけば、いずれ自分の使命のような大きなワクワクへと至ることができる。
だから、まずは今この瞬間、最もワクワクすることをやればいいってことだ。
例えば、今アイスクリームを食べることが最もワクワクするとするね。
そうしたら、よし、アイスを食べようと決める。
じゃあ、どのアイスを食べようか?と思う。
冷蔵庫にもアイスがあるけど、最近発売された期間限定のアイスを食べることが一番ワクワクする。
じゃあ、コンビニに出かけることにする。
もしかしたら、コンビニに出かける途中で知り合いに会って立ち話をして、その話の中で出たことにものすごくワクワクするのであれば、そっちに進んでもいい。
誰にも会わずにコンビニに着いて、たまたま目に留まった雑誌を読むことがワクワクするなら、そうすればいい。
という感じで、常に自分の心に「今自分が最もワクワクすることは何だろう?」と問いかけて、それを追い求めていけばいいっていうことなんだよね。
まあ、このアイスの例がいいか悪いかはわからないけど。(笑)
ちなみにバシャールのワクワクには、4つのステップがある。
ワクワクの4ステップ
①Act on your highest excitement
そのとき一番ワクワクすることを行動に移す
②To the best of your ability
そのワクワクを出来る限りのところまで行動する
③With zero insistance on particular outcome
特定の結果に一切固執しない
④Remain in the positive state
ポジティブな状態を保つ
上で書いたアイスの話は、①と②くらいまでのところかな?
③④をアイスの例で考えると、仮にコンビニに行って期間限定アイスが売り切れていたとしても別に気にしないということだね。
アイスが買えなかったことについて「なんだよー。売ってないなら来るんじゃなかった…」といって腹を立てたりネガティブな気持ちになるんじゃなくて、別に目当てのアイスが買えなくても、もしかしたらほかに美味しいアイスがあるんじゃないかと思って探したら、もっといいアイスが見つかることだってある。
もし、そのコンビニにいいアイスが見つからなくても、「よし、じゃあ別のコンビニに行ってみようかな?」と考えたり、「そういえば、アイスよりもフラペチーノを飲みたくなっちゃった!」と思えばスターバックスに行けばいい。
もしくは、欲しいアイスは買えなかったけど、せっかく外出したんだからその辺を散歩してみようかなぁという感じで、ポジティブな状態を維持し続ければシンクロニシティが起きるので、それを信じて待っていればいい。
これがバシャールの教えてくれた「ワクワクで生きる」ということの僕なりの解釈だよ。
日々の生活に追われていると「ワクワク」に従って生きるというのはなかなか難しいかもしれないけれど、「ワクワク」がハイヤーセルフからの「そっちに行ったほうがいいよ」という合図だっていうことは、覚えておいて損はないかもね。
今回最後まで読んでくれて、どうもありがとう!
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ないものは、あげられない。
自分が持っていないものを人に与えることはできない。
これはまあ、当然そうだろうと思う。
例えば、「タバコを1本くれない?」と言われても、喫煙しない僕はタバコを持っていないから、人にあげることはできない。
じゃあ、僕が仮に喫煙者で、今タバコを1本持っていたとする。
そのとき、誰かから「1本くれない?」と言われたらどうだろうか?
僕はたぶん躊躇すると思う。
あげたら自分の分がなくなっちゃうから。
もし仮に5本持っていたとしても、しばらくタバコを手に入れる手段がない場合は断るかもしれない。
あるいは、その相手が自分の苦手な人だったりしたら、10本持っていても断るかもしれない。
100本持ってたら、1本くらいあげてもいい。(笑)
つまり、自分が十分に持っていないものを快く人に与えるというのは、なかなか難しいってことだ。
そして、これはモノだけでなくて、形のないものについても言えるんじゃないかと思う。
例えば、自分がすごく落ち込んでいて元気がないときに、心の底から人に笑顔を振りまくのは難しい。
自分の心にゆとりがないときに、純粋に人に優しくするのもなかなか難しいことだと思う。
だから、幸せな世界にしたければ、まずは自分自身を幸せで「満たす」ことが必要なんだろうと思う。
自分自身を幸せで「満たす」ことができれば、その幸せは自然に溢れ出す。
溢れ出た幸せは家族や身近な人を幸せにする。
家族や身近な人を幸せで満たせば、その周囲へ、またその周囲へと広がっていき、やがて世界全体に幸せが行き渡る。
つまり、自分の望む世界に住みたければ、望むことが溢れ出るほどに自分自身を「満たす」必要があるってことだ。
楽しい世界に住みたければ自分自身を楽しさで「満たす」ことがスタート地点だし、優しい世界に住みたければ、まずは自分自身を優しさで「満たし」てあげなきゃいけない。
そして、そのためには我慢することをやめたほうがいいと僕は思う。
だって、我慢は「不足」のもとだから。
我慢すればするほどに「欠乏」していくから。
我慢を美徳だと思っている人は多いと思うけど、僕は断固として我慢には反対だ。
聖人君子であれば別かもしれないけど、持っていないものを人に差し出すのはかなりハードなことだ。
だから、我慢すると「不足」して、それは他者への怒りや妬みにつながる。
そうならないためには、できるだけ我慢せずに「満たす」ことに意識を向けたほうがいい。
まずは自分自身を「満たす」こと。
自分の至福を最優先すること。
自分の心の中のバケツが至福で満たされれば、その至福は周囲に溢れ出す。
至福に溢れた世界に僕は住みたい。
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抵抗するから「問題」になる。
自分にとって嫌なことや望まないことが起きると、僕らはそれを否定したり抵抗したりする。
でも、そうしてしまうと、前回書いたように、自分にとってネガティブなことにフォーカスしてしまうことになる。
そして、ネガティブなことにフォーカスし続けても状況はなかなか改善しない。
嫌な現実そのものではなく、その現実が自分にとってポジティブな状況に変わった後のことに意識を向けるほうが、より良い未来を手に入れやすい。
それについても前回書いた。
だけど、現実に、今嫌なことに直面しているのに、ポジティブな方向にフォーカスするって、なかなか難しいよね。
じゃあ、僕らはその目の前の「望まない現実」にどう向き合えばいいんだろうか?
僕は、抵抗するのをやめるという方法もあるんじゃないかと思う。
だって、否定したり抵抗したりするから “問題化” するのであって、抵抗しなければそれは “問題” にはならないはずだから。
基本的に、他人を変えることはできない。
変えられるのは自分の意識の向け方だけ。
そうであるならば、自分の意識や考え方を変えて、抵抗するのをやめる。
そうすると、自分にとって “問題” だと思っていたことが “問題” ではなくなる。
例えば、ここ数日の寒波に加えて緊急事態宣言まで出て、子どもが家の中でゲームばかりしてる、とする。
それを見て、「この子はもう! 一日中だらだらゲームばかりして!」とイライラするのは、子供の行動や態度が自分にとって好ましくないものであり、その状況に対して「もっとちゃんとしてよ!」と抵抗してしまうことが原因だと思う。
そしてその抵抗によって、「子どもがだらだらゲームをしている」ということが “問題化” してしまう。
だけど、これって “問題化” すべきことなんだろうか。
子どもがだらだらゲームをすることの何が “問題” なんだろうか?
きっと、「そんなことではろくな大人になれない」とか、「だらだら遊んでないで勉強しないとまともな大学に入れない」とか、「こんな状態では真っ当な社会人になれない」などといった思いが自分の中にあるんだろうと思う。
でも、本当にそうなんだろうか?
世の中には「だらだらゲームをする子ども」を見ても何とも思わない人もたくさんいるはずだ。
だとすると、対処すべきは「外側の現象=子ども」ではなく、「内側の観念=自分の思い込み」なのかもしれない。
もしかしたら、「だらだらゲームをする子ども」が目の前にいるという現象は、自分自身の思い込みに気づくためのきっかけなのかもしれない。
- だらだらしていると、ろくな人間になれない
- ゲームばかりしていては、まともな大人になれない
という自分の中の「観念=思い込み」に気づくことができれば、「そういえば自分も子どもの頃はだらだらしてたけど、今は一応ちゃんと生きてるよなぁ」とか、「自分も昔はファミコンやプレステに熱中してたときがあったなぁ」とか、「そんなにゲームが好きならゲーム会社に就職すればいいかも」とか、「元気に生きてくれてるだけでありがたいことだよな」なんて思えたら、目の前の現実に “抵抗” しようという気持ちが薄れてくる。
抵抗する気持ちが薄れると、その現実が “問題” ではなくなる。
そして “問題” でなくなれば、次回また同じようなことが起きてもそれに腹を立てたりイライラしたりすることがなくなる。
自分にとって嫌な出来事が起きたときに、反射的に抵抗するのではなく、ちょっと踏みとどまって「その出来事が自分に伝えようとしているメッセージは何なのか?」ということを掘り下げることができれば、その現象は “問題” ではなくなるかもしれない。
抵抗するから “問題” になる。
それを “問題” にするかしないかは自分次第だ。
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「無駄な抵抗」はやめよう。
以前にも書いたことがあるけど、僕は、自分を押さえつけようとする相手に対して、反発・反抗するということを子どものころからずっとやってたんだよね。
小さい頃は反発の相手が親だったけど、それがやがて教師や部活の先輩になり、社会に出てからは上司や経営者、客先になり、世の中全体になり・・・と、相手は変われど常に何かに抵抗して生きてきた。
でも、どれだけ抵抗しても状況は良くならない、というかむしろ悪化してしまうことのほうが多かった気がする。
そして、5年くらい前にそういう「無駄な抵抗」をできるだけ手放すようにしたら、毎日が楽しくなったし、明らかに生きることが楽になった。
結局、何か嫌なこと、自分が望まないことが起きたときに、それに抵抗しようとすると、自分の意識(フォーカス)が「嫌なこと」や「望まない」ことに向かってしまうんだよね。
今だからわかるけど、これってスピリチュアル的にはとってもマズいことだ。
スピリチュアルでは、「感情が先で、現実は後」とか、「自分が感じたことや思考したことが現実になる」というのが定説だからね。
例えば、何か大事な場面で「どうか失敗しませんように…」と念じ続けていると、「失敗すること」に意識が向いているので、「失敗」が現実になってしまう。
そういう経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるんじゃないかな。
ダチョウ倶楽部の上島さんが「押すなよ!絶対押すなよ!」と言うと、必ず押されてしまうというのも同じかな?
いや、あれは違うか。(笑)
そういえば、引き寄せの法則について書かれた書籍『ザ・シークレット』の中で、マザーテレサの言葉が引用されていた。
反戦集会には行かないけど、平和集会には行くわ。
(マザー・テレサ)
実際のところ本人が何を意図して言ったのかはわからないけど、書籍の中では、テレサは「戦争」ではなく「平和」にフォーカスしようとしていた、という意味合いで取り上げられていたと思う。
確かに、反戦集会はそのフォーカスが「戦争」に向いているけど、平和集会は「平和」に意識が向いている。
「戦争」よりも「平和」に意識を向けたほうが心地よいのは間違いないと思う。
ちなみに、僕はいつも通勤時に電力会社の前を通るんだけど、「原発反対」という汚れた横断幕を掲げて、拡声器を使って怒鳴り声を上げている集団をよく見かける。
僕自身、原発には断固反対だけど、そういう反対運動をしている人たちを見ていて心地よい気分になったことは一度もないし、応援したいとも思わない。
それは、ネガティブなことに意識が向いている人を魅力的だとは思えないからだろうと思う。
話がちょっとズレてしまったので元に戻すね。
何かに抵抗しようとすると、ネガティブな側面にフォーカスすることになってしまう。
そして、ネガティブなことを意識し続ければ気分はネガティブになり、結果的にネガティブな現実を生み出すことになる。
だから、その負のループから抜け出すためには、望まないことに意識を向けるのではなくて、望むことにフォーカスする必要があると思う。
- 戦争ではなく、平和な世界に
- 腐った世の中ではなく、理想の社会に
- 嫌な上司ではなく、理想的な上司像に
- 自分の嫌な面ではなく、理想の自分像に
- 病気の自分ではなく、健康になった自分の姿に
- 不足ではなく、充足に
- 不安ではなく、希望に
- 不幸ではなく、幸福に
フォーカスのポイントをネガティブな面からポジティブな面にずらすだけで、気分はガラッと変わる。
気分が変われば、現実も変わる。
だって、思考や感情は現実になるんだから。
信じるか信じないかは・・・
あなた次第ですっ! ド━━ m9(゚Д゚) ━━ン!
(笑)
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「正義」の数だけ「悪」がある。
前回の記事では、「自分が正義」だと思うところから「悪」である相手への攻撃が始まり、「正義」と「正義」のぶつかり合いで対立が激化するというようなことを書いた。
僕らは、「自分は正しい」と思いがちだと思う。
だけど、「自分は正しい」と思った瞬間に、そうでない人は「正しくない人」「間違っている人」になってしまう。
だから、「自分は正しい」と思う要素が多ければ多いほど、自分の周囲には「正しくない人」や「間違ってる人」が溢れていくことになる。
つまり、自分が持つ「正義」の数が多ければ多いほど「悪」に出会う可能性も増えちゃうってことだ。
例えば、新型コロナ流行下の今「常にマスクをするのが正義」だと思っている人は、外出した時に道でマスクをしていない人とすれ違ったら、「悪」を目にすることになる。
そんな人に何人もすれ違うとすると、次から次に「悪」が目の前に現れることになる。
「子どもは学校に行くのが正しいことだ」と思っている人は、自分の子が学校に行くことを嫌がると、目の前に「正しくない人間」=「間違った人間」≒「悪」が現れることになる。
そんなことが毎日続けば、日々「悪」に直面することになってしまう。
「職場には始業の10分前までに到着しておくのが正しいことだ」と思っている人にとって、遅刻してくる人や、時間ギリギリにオフィスに駆け込んでくる人は、「正しくない人」=「間違った人」≒「悪」だ。
だから、そういう人を見るたびに腹立たしい思いをすることになる。
結局、自分の中の「正義」が多い人は、その分「悪」の数も多くなるということだ。
これは以前の記事で書いた、「こだわればこだわるほど幸せは逃げていく」というのと同じ構造だね。
正義の数だけ悪がある。
毎日嫌なことばかり起きる、周囲の人の行動にいつもイライラする、という人は、もしかしたら「正義」を抱え過ぎてしまってる可能性もあるね。
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「正義」とどう向き合うか?
アメリカでは、大統領選挙から2カ月以上経っても混乱が続いている。
日本ではあまり情報が入ってこないからよくわからないけれど、アメリカ国内では、トランプ派とバイデン派が、いまだに国を二分する対立を続けているみたいだね。
トランプ派から見ればバイデン派は「悪」だし、バイデン派から見たらトランプ派は「悪」だ。
そして、当たり前だけど、トランプ派もバイデン派も、自分たちが「正義」だと思っている。
「正義」と「正義」がぶつかるから、激しい対立が起きる。
ところで、僕が大学のときに専攻していたのはカンボジアの現代政治だった。(マニアック~!笑)
カンボジアはその昔、東南アジアの大部分を支配していたほどの強大な国(クメール王朝)だったんだけど、20世紀に入ってからは、大国の思惑に翻弄された挙句に内戦でボロボロになるという悲劇的な歴史をたどった。
なかでも、クメール・ルージュ(いわゆるポルポト派)によって何百万人もの国民が死に追いやられた時期については、安易に語ることができないほど悲惨だ。
ちなみに、このクメール・ルージュによる政権下では全国民の7人に1人とも言われるほど多くの人が亡くなったんだけれど、クメール・ルージュ自身は自らを「悪」だとは全く思っていない。
むしろ彼らは、自分たちはブルジョアジーから搾取されている農村部の貧しい人々を開放して、「地上の楽園」をつくるという理想に燃えていたんだよね。
つまり、自分たちは「正義」を行っていると信じていたわけだ。
だけど、彼らにとっての「悪」であるブルジョアジーを排除するために、国中の教師、医者、弁護士、政治家、公務員、企業経営者・・・といった知識階級を皆殺しにするという凄まじい政策をとった。
そのために、まだ物心つかない幼い子どもたちを洗脳して少年兵に仕立て上げ、家族でさえも密告させ殺害させるというような、言語に絶するほどの行為を行った。
繰り返しになるけれど、彼らクメール・ルージュ自身は、「地上の楽園」をつくろうしている「正義」の側にいると思っていたんだよね。
彼らにとってブルジョアジーは「悪」だから、「悪」を排除する自分たちは「正義」だと。
僕らは今の時代の日本にいるから、彼らの所業を酷いことだと思えるけど、でも彼らを非難することができるかといえば、そうでもないかもしれない。
例えば自粛警察。
電車や地下鉄の中で、マスクをしていないからといって怒鳴りつけたり殴りかかったりする人がいるというニュースは何度も目にした。
彼らはコロナ流行下でマスクをする自分は「正義」であり、マスクをしない「悪」の人に対してはどんなことをしてもいいと思っているんじゃないかな。
例えばモンスターカスタマー。
自分が購入した商品やサービスを提供している企業に対して、理不尽なクレームを入れたり法外な要求をしたりする人たちのことは、何年も前から問題になっている。
これも、彼らが、客のほうが偉い=自分は「正義」だと思っていることが原因だ。
煽り運転をする人、ネット上での誹謗中傷行為、人種差別を煽るレイシストなどなど、例を挙げればキリがないほど世の中には「正義」が溢れていて、彼らは「悪」を叩きまくっている。
だけど、その「正義」で世の中はよりよくなるんだろうか?
その「正義」が勝てば世の中は楽しいものになるんだろうか?
僕はそうは思わない。
前回の記事で書いたように、あらゆる物事は本来、中立(ニュートラル)なはずだ。
その物事を「正義」と見るか「悪」と見るかは立場によって異なるわけだから、絶対的な「正義」も絶対的な「悪」もあり得ない。
だから、白か黒か、ゼロかイチか、という思考では本質を捉えきれないと思う。
本質でないところでいくらガチャガチャとやり合っても、本質的な問題解決には至らないもんね。
ちなみに僕は、ノーベル賞候補にもなった環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが好きじゃない。
それは、「正義」を振りかざして「悪」に激しく噛みつく彼女のスタンスが好きじゃないから。
そして、なぜ「正義」を振りかざす彼女が好きじゃないかというと、僕の中にも「正義」を振りかざして人を攻撃したくなる自分がいるから。
グレタさんを見てると、そんな自分の中の嫌な部分を見ているような気分になってしまうんだろうと思う。
どれだけ「正義」を振りかざして「悪」を攻撃しても、世の中は良くならない。
でも、頭ではわかっていているのに、瞬間的にブワッと、自分は「正義」だという感情が出てくるときがあって、僕はそれが苦しい。
最近のアメリカ大統領選に絡む混乱を見ながら、僕は、おまえは自分の内面の「正義」とどう向き合うんだ?と問いかけられているような気がしてる。
きっと、大事なのは「正義」ではなく、その先の何かのはずなんだけど。
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宇宙人が教えてくれたこと ⑤すべては中立・ニュートラル
今回は宇宙人が教えてくれたシリーズの5回目で、あらゆることは中立でニュートラルである、ということについて書こうと思う。
ちなみに、4回目まではこちらです。
僕の大好きな宇宙人・バシャールは、あらゆる出来事は中立(ニュートラル)だと言ってる。
地球上で今起きていること、これまでに起きたこと、これから起きること、どんなこともすべては中立で、そのこと自体に意味はない(良いも悪いもない)と。
極端に言えば、今僕の目の前で殺人事件が起きたとしても、そのこと自体には何の意味もないということになる。
だけど、そんなことが起きたら、普通はネガティブな出来事だと思うよね。
もし、その殺された人が僕の大切な人だったとしたら、なおさらネガティブな出来事ということになる。
それでもバシャールは、そのこと自体は中立であって、それにどんな意味を与えるかは、僕次第なんだと言う。
これは、とんでもないことを言っているようだけど、客観的に考えてみると、実はそうでもない。
仮に、殺された僕の大切な人について全く知らない人、例えば地球の裏側・ブラジルの田舎に住むAさんという人がいたとして、その人は僕が大切な人を殺されたということについてどう思うだろうか。
たぶん、どうも思わないと思う。
だって、どこか遠くの国で知らない人が亡くなったという、ただそれだけのことだから。
じゃあ、仮に殺された僕の大切な人自身が、実は過去に人を殺めたことがあったとして、その被害者家族が今回の出来事を知ったらどう思うだろうか。
おそらく、その家族にとって僕の大切な人の死は、むしろポジティブな出来事として受け止められる可能性が高い。
つまり、一人の人間が殺されたという同じ事象であっても、それをポジティブに受け止めるかネガティブに受け止めるかは、その人次第ということだ。
立場によってポジティブにもネガティブにも受け止められるということは、そもそもその事象に絶対的な意味はない=中立である、ということの証だと思う。
あらゆる出来事は、本来は「ブラジルのAさん」のスタンスから見るようなことなんだけど、その事象との関係性の違いによってポジティブな出来事にされたり、ネガティブな出来事にされたりするだけのことだ。
そして、それをポジティブなものにするかネガティブなものにするかは、自分自身がそれにどんな意味を与えるか?ということ次第なんだよね。
もう少し具体的に言うと、例えば、僕の母は10年以上前にガンで亡くなった。
これは僕にとって、とても悲しくて辛いことで、人生最大のネガティブな出来事だった。
だけど、ブラジルのAさんから見たら、それはネガティブなことでもポジティブなことでもない。
「地球の裏側に住む62歳の女性が病気で亡くなった」というただそれだけのことだ。
でも、家族である僕は、母の死に対してものすごくネガティブな意味を与えるわけだ。
- もう二度と会えない
- もっとたくさん話をしたかったのに、もうできない
- これからもっと親孝行したかったのに、もうできない
- 孫が成長する姿を見せたかったのに、それもできない
- 62歳という若さで死ななきゃいけないなんて、理不尽だ
ネガティブな意味を与えようと思えば、いくらでも出てくる。
だけどね、母の死に対してポジティブな意味を与えようと意図すれば、本当はそれも可能なんだよね。
- 母がガンの痛みから解放されて良かった
- 辛そうな母の姿を見なくて済む
- これからは闘病する母のケアをしなくて済む
- 歳をとった母の介護をする必要はない
- 嫁姑問題が起きることはない
などなど。
どんな出来事、どんな物事も本来は中立(ニュートラル)だ。
じゃあ、どうして僕らはそう思えないことが多いんだろう?
これはネガティブなこと、これはポジティブなこと、これは良いこと、これは悪いこと、というふうに物事に白黒つけて考えがちなんだろうか?
それは、僕らが持っている信念(ビリーフ)があるからだとバシャールは言う。
信念というのは、これはこういうものなんだという、普段は意識していない心の深いところにある思い込みのこと。
「人の死はネガティブなものだ」とか「死んでしまったらもう二度と会えない」といったような思い込みがあるから、「死」にまつわる出来事に直面したときにネガティブな感情が出てきてしまう。
だから、何かについてものすごくネガティブな感情を持ってしまって、その出来事に押しつぶされそうになっているときは、「自分の中のどんな信念がこの出来事をネガティブなものにしてしまっているんだろう?」と考えてみるといいかもしれない。
そして、その信念を探し当てることができたときに、「この信念は本当なんだろうか?」 って考えてみることができれば、同じ出来事であっても感じ方が変わってくるかもしれないよ。
ということで今回は、バシャールに教えてもらった、あらゆる出来事は中立(ニュートラル)であるっていうことについて書いてみました。
最後まで読んでくれて、どうもありがとう!
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依存度は選択肢の数で決まる。
前回の記事では、「自分軸」ではなく「他人軸」で生きると、人生がスムーズに進まないかもしれない、ということをボールの重心に例えて書いた。
だけど、そもそも、どうして僕らは「自分軸」ではなく、「他人軸」で生きてしまいがちなんだろうか?
それは、おそらく、何かに依存(執着)しなければ生きていけないからだと思う。
もともと僕らが生まれたばかりの赤ちゃんのときは、完全に自分軸で生きていたはずだ。
だからこそ、時や場所を考えずに泣きわめくことができたし、周りの人たちもそれを許してくれていた。
でも、少しずつ成長して身体を自由に動かせるようになってくると、「あれをしちゃダメ」「これをしなさい」と親から言われるようになる。
さらに大きくなると、先生と呼ばれる人や友達、そしてマスメディアや周囲の大人たちが有言・無言の圧力をかけ始める。
でも、まだ一人で生きていくことができない子どもたちは、そういった周囲の声に従って生きていかざるを得ない。
だから、本当は自分がしたくないこともやるようになるし、やりたいこともできなくなる。
そんなことを延々と続けているうちに、他人軸で生きることが当然のようになってしまう。
そして成人して、ようやく自由の身になったかと思えば、今度は生活のために働かなきゃいけなくて、結局はようやく手放せたかと思った他人軸が、「企業」になったり、「上司」や「同僚」、あるいは「地域住民」「世間の空気」なんかに変わるだけのことだ。
つまり僕らは、何かに強く依存し続ける限り、他人軸を手放すことは難しいんだろうと思う。
逆に言えば、他人軸を手放すためには、自分が依存している対象への依存度を薄めていく必要がある。
じゃあ、どうすれば依存度を薄めることができるのかといえば、それは選択肢を多く持つということじゃないかな。
例えば、医療で言えばセカンドオピニオンみたいなもの。
何か大きな病気をしているときに、ただ一人の医者に依存していると、すべてその医者の言いなりになってしまって、自分の健康(もしかしたら命まで)をその一人の医者に預けることになってしまう。
でも、もしほかの複数の医者の話を聞くことができれば、僕らは自分で主体的に治療法を選ぶことができる。
つまり、自分の人生の主導権を取り戻すことができるようになる。
収入源を複数持つというのも同じことだ。
毎月の収入が、自分が勤めている会社からしか入ってこない状態だと、これまた自分の生活(人生)をその会社に預けているのと同じことだ。
会社から「こうしろ」と言われたらこうしなきゃいけないし、「これはやめろ」と言われたらそうせざるを得ない。
つまり他人軸で生きざるを得ない。
だけど、収入源を複数持っていれば、会社の言いなりにならずに済む。
納得できないことがあれば、毅然とした態度で臨むこともできる。
つまり、自分の人生の主導権を取り戻すことができるようになる。
これは医療や収入に限らず、恋愛にしろ、友人関係にしろ、住む場所にしろ、何でもそうだろうと思う。
そういう意味で、自分の人生において大切なモノやコトを1つのところに依存しない、つまり選択肢を幾つも持っておくということがとっても大事だと僕は思う。
選択肢を複数持つということは、いつでも手放せる(逃げ出せる、離れられる)っていうことだ。
いつでも手放せるものと “依存” は馴染まないもんね。
選択肢が複数あれば依存度が下がる。
依存度が下がれば、他人軸を手放し、自分軸を大切にして生きられるようになる。
だから、僕はいつでも、できるだけ多くの選択肢を持っておきたい。
自分軸で自由に生きるために。
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「自分軸」はボールの重心
自分の軸を持つことの大切さについては、このブログの中で何度も触れた。
昨日観た「映画 えんとつ町のプペル」でも、自分軸って大事だよなぁと、再認識させられたしね。
ということで今回は、昨日、映画を観ながらふと思い浮かんだ自分軸に関するイメージについて書こうと思う。
あ。その前に自分軸ということについて簡単に説明しておくね。
ちなみに、「自分軸」の反対は「他人軸」で、他人軸っていうのは、自分以外の人の価値観、考え方、ルール、社会の常識や既成概念、世間の空気みたいなもの。
僕らは子どものころからずっと、親や教師、友達、マスメディアなどによって、そういった “本来の自分のものではない価値観” を植え付けられて生きてきた。
「~をしなければいけない」「~をしてはいけない」「~すべきだ」といった思考はすべて他人軸で、中には「自分の思考のほどんどが他人軸」という人もいるかもしれない。
だけど、他人軸ばかりで生きて、いずれ死んでいくとしたら、“自分” が “自分” として生きている意味がないと思うんだよね。
それはまさに、スティーブ・ジョブズの言う「他人の人生を生きる」ということと同じだから。
あなたの時間は限られています。
だから、他の誰かの人生を生きることで
時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけません。
それは他人の考えに従って生きることと同じです。
他人の考えに溺れるあまり、
あなたの内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、
自分の心と直感に従う勇気を持つことです。
あなたの心や直感は、
自分が本当は何をしたいのかを知っています。ほかのことは二の次で構わないのです。
(スティーブ・ジョブズ)
たった一度の自分の人生を充実したものにするためには、やはり自分軸で生きることが大切だと僕は思う。
自分軸は、魂の声だ。
自分が本当は何をしたいのか、自分は何を望んでいるのか、どう生きたいのか。
心の奥底から湧き上がってくる魂の声、それが自分軸だと思う。
ところで、僕自身をボールに例えたとき、「軸」というのはボールの重心に相当する。
重心がボールの真ん中にしっかりと位置していれば、ボールはスムーズに真っすぐ、しかも遠くまで転がり続ける。
だけど、もし重心が真ん中ではなくて外側近くにあったら、ボールは不安定でいびつな転がり方をした挙句、すぐに止まってしまう。
自分軸で生きることと他人軸で生きることの違いは、こんなイメージだと思う。
自分軸で生きると、重心が自分の真ん中にあるから、スムーズに、真っすぐ、そして遠くまで進み続けることができる。
一方、他人軸で生きると、外側近くにある重心に振り回されて、思うように進むことができない。
場合によっては、まるで “おきあがりこぼし” のように、全く前に進めない可能性すらあるよね。
他人から何を言われようと、世間からどんな目で見られようと、自分の魂の声を聴き、自分の感覚を信じて生きていく。
いつ何が起こるかわからないこの世界の中で、自分の人生をより良いものにするために、まずは自分軸に沿って生きると決めること。
そこがスタート地点だと、僕は思う。
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【感想】「映画 えんとつ町のプペル」を観て。
今日が年末年始休暇の最終日。
一番上の子と2人で「映画 えんとつ町のプペル」を観に行った。
絵本は読んだことがあるんだけど、映画は映画で原作とはまた違ったストーリーで、なるほどそういう展開になるのか〜と、新鮮に楽しめた。
映画としての出来栄えや完成度についてはいろいろな意見があるのかもしれないけれど、僕は、西野亮廣さんのこの十数年間の集大成として拝見して、実に感慨深かった。
西野さんがここに至るまでのストーリーを知っているから、なおさらグッと来るものがあって、エンドロールの最後に西野さんの名前が出たところで、ついに耐え切れずに目が潤んでしまった。
映画や小説については「作者と作品を切り離して考えるべき」ということがよく言われる。
だけど、そういった「~すべき」という世の常識に対する異議申し立てこそがこの映画のテーマだと思うし、そうでなかったとしても、僕は、この映画は西野さん自身の物語だと思う。
周囲から叩かれ、笑われ、馬鹿にされ続けながらも信念を貫いて、10年以上かけて自分の夢の一つ(自作絵本の映画化)を実現した西野さんの生き様そのものだ。
そしてこの映画は、夢を追いかける人たちへの応援歌であり、また、夢に向かって挑戦しようとする人を嘲笑う者たちへのアンチテーゼでもある。
僕らは、あのえんとつ町の住人たちを誰一人として笑うことはできない。
えんとつ町は今のこの世界にそっくりじゃないだろうか。
狭い世界の中でしか通用しない常識や価値観で人を縛り付け、それに疑問を持って行動する者は矯正されたり排除されたりするという点において、この社会とえんとつ町に違いはない。
思考停止し、マスメディアに踊らされ、何も考えずに生きている大人たちのなんと多いことか。
それだけならまだしも、自らの常識や固定観念から外れる人、新たな世界にチャレンジしようとする人を寄ってたかって排除する。
僕がこのブログで書いているような内容も、今の社会では一般的に受け入れられるものじゃない。
こういうスピリチュアルなことを人前で話せば、きっと眉をひそめられたり、苦笑いされたりすることだろう。
そう。主人公のルビッチや、その父親であるブルーノが、「煙の向こう側には星があるんだ」と言うだけで笑われ、罵られたりしたのと同じように。
だけど、映画のクライマックスでルビッチは、えんとつ町の住民たちに向かってこう言い放つ。
誰か見たのかよ?
誰も見たことないだろう?
だったら、まだわからないじゃないか!
異なる価値観や考え方であっても、それを受け止める寛容な社会、もっと人が自由に生き生きと暮らせる世界を僕はつくりたい。
それこそが人類の可能性であり、希望だと思う。
そのためにも、自分自身の軸をしっかりと持ち、自分の力を信じて進んでいこう。
改めてそう思わせてくれた映画だった。
ちなみに、一緒に映画を観に行った長女は、こんな感想文を書いていた。
みんなにいろいろ言われても、自分を信じて最後まで諦めない姿に感動しました。
私も、これからみんなにいろいろ言われることがあっても、自分の考えをしっかり持って、最後まで諦めない人になりたいです。
親として、そんな人になってほしいと心から願う。
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