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 さあ、面白くなってきました。

考え方一つで、人生はどんどん楽しくなるね

「人助け」は必ずしも正義じゃない。

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困っている人に手を差し伸べたり、弱い者を助けたりすることは人間として当然のこと、大事なこと、それが正義だと子どものころから教えられてきた。

だけど本当にそうなんだろうか?

僕は最近、そう思わなくなった。

むしろ、安易に「人助け」をすべきじゃないと思ってる。


「人助け」が自分と相手という2者の間で行われるとすると、下の図のような構造になると思う。

 

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  • A: 相手が必要としていて、自分も手助けしたい。
  • B: 相手は必要としてるけど、自分は手助けしたくない。
  • C: 相手は必要としていなくて、自分も手助けしたくない。
  • D: 相手は必要としていないけど、自分は手助けしたい。

 

この4パターンで考えると、CとDは相手が必要としていないわけだから「人助け」をしちゃいけないゾーンだと思う。
相手がどんなに困っているように見えたとしても、こちらが勝手に推察して手を貸すというのは、ただのおせっかい

 

以前、街なかで体の不自由な人が立ち往生していたので「大丈夫ですか?」って声をかけたら、すごく嫌な顔をされたことがあった。

それで、僕は逆にカチンときて、「何だよ、人がせっかく親切にしてあげてるのに!」って思っちゃったんだけど、考えてみれば彼はまったく悪くないと思う。

そもそも、「親切にしてあげてるのに!」と思うこと自体が相手を自分より下に見ている証拠だと思う。

相手としては別に「助け」を必要としていないのに、しかも上から目線の人間からおせっかいをされそうになるなんて、いい迷惑だもんね。

 

基本的に、このCやDの場合に手を貸すということは、相手が成長する機会を奪うことにもなる。
そんな権利はこちらにはないわけだから、相手が必要としていないのに「助ける」というのは、単なる自己満足にすぎない。もっといえば、ただのエゴだ

 

次にAの場合は、相手が必要としていて自分もやりたいと思っているわけだから、ここは「人助け」をしていいゾーンだと思う。

ただ、このときに考えておかなきゃいけないのは、助けるほうが上で助けられるほうが下、という上下関係をつくらないことだと僕は思ってる。

先日、GACKT氏がYouTubeでボランティアについて語っているのを見た。
彼は3.11の大震災直後に、大量の物資を集めて被災地に運ぶという活動をしていたそうなんだけど、当時、なぜか激しいバッシングを浴びたらしい。

そこから学んだ教訓をYouTubeの中で語っておられたので、ちょっと長くなるけど引用したい。

 

【GACKT】

車を運転しています。
車を運転してたら、車線変更をしたいおばさんが自分の左前にいて、なかなか入れない。
入れないということは車の運転が下手だということなんですよ。
何回も入ろうとしているけど全然入れない。
中田さんだったらどうします?

【中田】

左前にいるんですから、スピード緩めたり、入りやすく…。

【GACKT】

つまり入れてあげるっていうことですよね。
その後、急に彼女がバッとブレーキを踏んで、中田さんはゴーンと(彼女の車に)ぶつけた。
そうしたらおばさんが降りてきて、「どこ見て運転してんのよあんた!!」となったら、どう思います?

【中田】

うーん…。入れたのに何でこんなことにならなきゃいけないんだろうって、やっぱ憤りますよね。

【GACKT】

そうですよ。ボランティアって多分これなんですよ。
ボランティアって、「入れたのに」じゃないんですよね。
「入れてあげたのに」っていうのは、それエゴなんですよね。

【中田】

えーっ。厳しいですね。

【GACKT】

もっと言うと、入れないのは彼女の技術が足らないわけじゃないですか。
技術が足らない彼女を入れてあげるっていうことにそもそもリスクが存在するんですよ。
で、自分でケツから突っ込むリスクも含めて受け止められるのかっていうことが大切で、それができないんだったら、入れるなっていう話なんですよ。

【中田】

すごいなぁ。そのメンタルはなかなか難しいものがありますね。

【GACKT】

もちろん人の気持ちって、そうは言ってもやっぱり優しくしてあげたい、親切にしてあげたいって、いろいろあると思いますよ。
でも、そこから起こり得る事故が自分に関わってくる可能性もあるんですよね。
それも含めたうえで自分の行動をとれっていうことなんですよ。

【中田】

そのメンタルで(ボランティアを)やってらっしゃるということですね。

【GACKT】

それを学んだんですよね、3.11のときに。

 

youtu.be


つまり、本来「人助け」っていうのは、それだけの覚悟がないとできないことなんだと思う
その覚悟さえできていれば、Aのゾーンでは喜んで「人助け」していいと思う。

 

そして最後に、4つのパターンのうち、相手は助けを求めているのに自分はやりたくないというBのゾーン。

これはとっても難しいけど、僕はこの場合は「人助け」をすべきではないと思ってる。
なぜかというと、やりたくないのに「人助け」をすると、ほぼ間違いなくエゴになるから。GACKT氏の言う「入れてあげたのに」というマインドになってしまうから。

もちろん、命にかかわるような場合は別かもしれないけど、相手が求めていたとしても自分がやりたくないのならやら、基本的にはやらない。
別のやりたいと思っている人が「助ける」のがベストだと思う。


つまり、「人助け」は人として当然のことでも正義でもない

相手が望んでいて、かつ、自分もやりたいと思い、対等の立場で覚悟を持ってできるときにだけやればいいことじゃないかな。

だから、「人助け」をしなかったからといって罪悪感を持つ必要はないし、それを理由に人から責められるべきではないと思う。

でも、だからこそ、それを覚悟して人助けができる人は素晴らしいと僕は思ってる。

同じようなことをやってるのに結果が変わってくるのは なぜ?

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同じようなことを同じようにやってるのに、その後の結果とか感じ方が全然違うことってない?

僕は最近このブログを書きながら、そのことを実感してる。


実は、僕はこれまでにも幾つかブログを運営したことがあるんだよね。

最初に立ち上げたブログは完全にアフィリエイト目的だった。
単価の高い商材を見つけてきて、自分自身は関心がないのにそれに沿った記事をひたすら書くということをやっていた。

ちゃんとサーバーを借りて独自ドメインを取得し、当時アフィリエイトに最適と言われていたHP制作ツールを使ってサイトをつくった。

もちろんSEO対策にも気を配っていたから、キーワード選定もしっかりやって、メタタグとかタイトルの表記とか、外部リンクなんかについても意識してコツコツ取り組んでた。

でも、結局モチベーションが続かなくて、軌道に乗る前に辞めてしまった。

 

それからしばらく経って、また別のブログを立ち上げた。

 

前回は自分に関心のないことだったから続かなかったんだろうと考えて、次は自分の好きな食べ物について取材(食べ歩き)をして記事を書くということをやってみた。

これは3~4カ月間集中的にやって、SEO対策はもちろんのこと、SNSと連携して拡散したりしたので、結構いい感じで進み、Googleのキーワード検索でトップ3に入るくらいまでのサイトになった。

それでアフィリエイト報酬も発生し始めたんだけど、これもモチベーションが続かなくてやめてしまった。

確かに食べるのは好きだったんだけど、それを記事にする、そのことを書くというのはそんなにやりたいことではなかったんだろうと思う。

 

その後も幾つかブログを書いてみたりしたんだけど、結局どれも続かなかった。

とは言いながら、このブログもまだ本格的に書き始めて2カ月くらいしか経っていないので偉そうなことは言えないんだけど、今回はこれまでアフィリエイト目的で書いてきたブログのときとは違う感覚がある。

 

一番大きな違いは、「自分が本当に書きたいことを書いてる」ということだと思う。
人からどう思われるかということは、あまり気にしていない。

もちろん、読んでくださる方の役に立てばいいなぁとか、できるだけわかりやすく書きたいなぁとか思いながら書いているんだけど、でも最優先は「自分の書きたいことを書く」だ。

だから当然、SEOなんて全く考えてない。(笑)

 

自分の書きたいことだから、これまで誰にも話したことのなかったスピリチュアルなこともたくさん書いてる。

正直、最初はそういうテーマのことを書くのはちょっと怖かったんだけど、でも、「別に誰にも読んでもらえなくてもいいか」「いつか僕が死んだ後で、子供たちがこのブログを見つけてお父さんが考えてたことに触れてくれればそれでいいや」、というくらいの気持ちだから、自分が書きたいことを何でも書くことができてる。

僕が考えてきたことを子供たちに残すのが一番の目的だから、SEO対策をシコシコやる必要もなくて、とっても気楽だし。


あ。ちなみに、僕はアフィリエイトを否定してるわけでは全然ないです。

ただ、僕にとってはアフィリエイトというのが、その時点で自分の心の奥底から出てくるものとマッチしなかったというだけだと思う。

逆に、もしそれがマッチすれば最高だと思ってる。

 

表面的には同じようなことをしていても、それが自分の中のどこから出てきたものなのかによって、結果や感じ方は全然違ってくるんだなぁということを実感してるんだよね。

おそらく、自分の軸(本来の自分が欲していること・魂の声)とズレたことをやっていてもうまくいかないんだろうと思う。

僕はこれからも、自分の心に耳を傾けて(自分の魂の声を聴いて)、自分が本当にやりたいと感じてることを楽しくやっていきたいと思う。

 

一瞬で気分をアゲる方法。

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毎日楽しく過ごせるのが一番だけど、どうしても気分が乗らないとか、気持ちが沈んでしまうときってあるよね。


もちろん、そういうときはその沈んだ気分をしみじみ味わうのもいいと思うし、無理に気持ちを上げようとせずに思い切って寝るとか、あえてダラダラ過ごすというのも悪くないと思う。


ただ、そんな気分のときでも仕事や学校に行かなきゃいけないとか、人と会わなきゃいけないときってあると思う。

例えば月曜の朝に、「学校行きたくないなぁ」とか「会社に行きたくないなぁ」と思った経験は誰でもあるんじゃないかな。


そんなときに僕がやってる、一瞬で気分を変える(スピリチュアル的には波動を上げる)3つの方法について今日は書くね。

 


まず1つ目は、口角を上げる

これはつまり笑顔をつくるということなんだけど、楽しくもないのに笑うのは結構しんどいから、単に口角だけを強制的に上げるの。

そうすると、たったこれだけのことなのに、不思議なことにちょっと楽しくなる

何もないのに笑ってたら変な人と思われそうでイヤだ…。という人もいるかもしれないけど、幸いなことに最近はみんなマスクをしてるから、以前に比べたら格段にやりやすくなってると思う。


2つ目は、姿勢を良くして背筋を伸ばす

気持ちが沈んでいるときは、どうしても背中が丸くなりがちなので、頭のてっぺんについている糸を上に引っ張られているような感覚でスッと姿勢を正して胸を張る。

そうすると、少しスッキリした気分になるよ。


そして3つ目は、瞳孔を開く

まあ、実際には瞳孔の動きをコントロールすることはできないんだけど、何となくそんなイメージで、出来るだけ多くの光を取り込もうとする感じかな。

目を見開くのでもいいと思う。

こうすると少しやる気が出てくる

 

口角、姿勢、瞳孔。

僕は気分を変えたいときに、この3つをやるようにしてるんだけど、面倒な人は口角を上げるだけでも十分に効果があると思うので、機会があったらぜひやってみてね。


ただ、最初に書いたように、強引に気分を上げる必要のないときには、ゆっくり寝るとか、とことん落ち込むという選択も悪くないと思うので、そこは臨機応変に。

僕の「ゾーン」体験。

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僕は、目に見えないもの、つまりスピリチュアルな世界があることを信じているけど、いわゆる霊感とか超能力的なものは全く持ち合わせていない。

だから、以前のブログにも書いた、母が亡くなってからしばらくの間続いた不思議な体験以外には、スピリチュアル体験というのはほとんどない。

 

ただ、今から30年ほど前、中学生のときの出来事で一つ強烈に覚えているのが、いわゆる「ゾーン」とか「フロー」と呼ばれる体験だ。

 

僕は小学校のときから野球をしていて、中学になっても野球部に入った。
とはいえ、突出して野球が上手なわけでもなくて、中学3年になっても補欠のままだった。

そんな僕がレギュラーになるきっかけとなった試合があって、それが中3の最後の大会の2カ月くらい前。隣の中学校との練習試合だった。

 

僕はその日も補欠だったので、試合中はバックネットの裏やベンチの後ろでずっと素振りをしていた。
すると、試合の途中で監督(顧問の先生)から声がかかって、代打での出番を告げられた。

それまで試合に出たことはほとんどなかったし、しかも2塁にランナーがいる場面での代打ということで、おそらく僕の緊張は極限まで高まっていたと思う。

 

打席に入った僕は、その極度の緊張状態のまま相手チームのピッチャーと向き合い、バットを構えた。

とはいえ、地に足がつかないというか、なんとも言いようのないフワフワした感覚だった。

 

そして、相手ピッチャーがボールを投げた瞬間、周囲の世界がスローモーションになり、何の音も聞こえなくなった

スローモーションの世界の中、ピッチャーの手を離れたボールはゆっくりと僕の目の前まで来て、そして止まった。(というか止まって見えた。)

僕は、「えっ?」っと思って、何が起きたのかよくわからないまま、ティーバッティングでもするように、その止まったボールめがけてバットをスーッと振り下ろした。

すると、ボールはバットの真芯に当たり、手には何の感触もないままセンター方向への強烈な打球となって飛んでいた。

 

これはホームランだろうという大きな当たりだったんだけど、たまたま深く守っていた中堅手にキャッチされてしまった。

結局、記録的にはセンターフライだったんだけど、代打でセンター方向に鋭い打球を打ったことで監督に認められて、その日から僕はレギュラーになった。

 

当時は、その不思議な体験よりもレギュラーになったことのほうが嬉しくて、あまり深くは考えていなかったけれど、今では、あの「ゾーン」体験のほうが記憶に残っている。

それ以降、スポーツをしていて「ゾーン」に入ったことはないけれど、あの日、中学校のグラウンドで、止まったボールにバットを振り下ろした瞬間の光景は時々思い出す。

 

そして、あの体験があったからこそ僕は、科学的には説明できない不思議な現象や、目に見えない世界、スピリチュアルなことに対する抵抗感が少ないんだろうと思ってる。

世界の「創造主」は自分である。

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僕は、新型コロナウイルスによる自粛期間中の今年4月に、こんなツイートをしてた。 

 

  

当時の僕は、新型コロナのおかげで世の中は良くなってるんじゃない?って、本気で思ってた。(今でも思ってる。)

でも、これを書いた時点で世界は混乱の真っ只中。

かなりピリピリしたムードだったから、新型コロナが良いことだなんて言える雰囲気ではなかったんだよね。

それもあって、僕は「誤解を恐れずに言うと」って冒頭で書いたんだと思う。

 

ただ、このツイートを発信しようがしまいが、僕自身はその時とてもハッピーだった。

マスコミが不安を煽り、SNSがそれを拡散し続ける中、僕自身は、新型コロナをきっかけにして世の中は良くなっていくに違いないと思ってワクワクしてたんだよね。

 

何が言いたいかというと、僕は4月の時点で、同じ地球上で暮らしているにもかかわらず、おそらく世の中の大多数の人とは違う現実を生きていたということ。

同じ空間の中にいて同じ現象を見ているのに、ある人は「もう人類は終わった…」と感じ、ある人は「やった!これから素晴らしい世界になる!」と思ってる。

 

つまり、自分自身の物の見方や受け止め方を変えれば、世界は全く違ったものになるということ。

逆に言えば、受け止め方を変えさえすれば、世界を変えられることになる。

 

「こんな腐った世の中、最悪だよ…」と考えていれば腐った最悪な世界の中で暮らすことになるし、「地球はなんて素晴らしいんだろう、最高だ!」と思っていれば最高の世界で生きていくことができる。

 

ただ、長年培ってきた思考パターンとか、これまで生きてきた環境は人それぞれだから、そんなふうに物の見方を変えるのって簡単なことじゃないよね。

 そんなときに僕がいつも思い出すのが、この話。

たしかデール・カーネギーの書籍だったと思うんだけど。確認できたら出典を書きます。 出典は『7つの習慣』でした。)

 

私は地下鉄の車両に乗り込んだ。
乗客は静かに座っていた。
ある人は新聞を読み、ある人は目を閉じ休んでいた。

そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。
すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。

子供たちは大声を出したり、物を投げたり、なんとも騒々しく、気に障るものだった。

しかし、その男性は私の隣で目を閉じて座ったまま。
私はいらだちを覚えずにはいられなかった。
子どもたちを注意もせず、ただ座っているだけの彼の態度が信じられなかった。

 

こんな状況に巻き込まれたら、誰だってイライラするよね。

「ああ…最悪だ…。よりによって、どうしてこんな連中がこの車両に乗ってくるんだよ…」って思うかもしれない。

もし、朝の通勤時だったとしたら、一日中嫌な気分で過ごすことになる可能性もあるよね。

 

ただ、この話はまだ続きます。

 

周りの人たちもいらいらしているように見えた。
私は耐えられなくなり、彼に向かって控えめに、「あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのですか?」と言ってみた。

彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついた表情になり、柔らかいもの静かな声で、こう返事した。

「ああ、本当にそうですね、どうにかしないと……。たった今、病院から出てきたところなんです。一時間ほど前に妻が…あの子たちの母親が亡くなったものですから……。いったいどうすればいいのか……。子供たちも混乱しているみたいで……」

 

その瞬間の私の気持ちが想像できるだろうか。
突然、その状況を全く違う目で見ることができた。
違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。

私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの気持ちが自然にあふれ出してきたのである。

「奥さんがなくなったのですか、それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか?」

一瞬にしてすべてが変わった。

 

どうだろう。

この男性は、表面的な現象の裏にある背景を知ったことで、世界が180度変わってしまった。

おそらくこの男性とそれ以外の乗客は、同じ地下鉄の同じ車両に乗っていながら全く違う光景を見ているはずだと思う。

 

あなたの世界はあなた自身が創っているのだから、見方ひとつ、受け止め方ひとつで世界は一瞬にして変わる

変えようと思うか思わないかは・・・

 

あなた次第ですっ! ド━━  m9(゚Д゚) ━━ン!

(笑)

 

「飽きること」は挑戦と成長の証。

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僕はかなり飽きっぽい性格で、趣味にしても仕事にしても長続きしないことが多い。
大学時代の部活は1年で辞めたし、転職は4~5回したし、趣味も次から次に変わっていて、半年くらい前までハマっていた苔テラリウムのボトルたちは、今は我が家の片隅でひっそりと佇んでいる。(笑)

(苔テラリウムをご存知ない方はこういうサイトがわかりやすいかも?)

 

そういえばこのブログも、最初に登録したのは2014年5月なんだけど、そのときは記事を2~3件書いただけで放置状態になっていた。(汗)

 

そういうわけで、僕は子どものころから、やり始めると熱中してのめり込むけど、すぐに飽きて放り出すということを繰り返してきた。
だから、そんな自分の性格を恨めしく感じたり、情けなく思っていた時期も長かった。

でも、前回の記事にも書いたように、最近はシンクロニシティを大事にしながら生きているので、むしろそういう性格で良かったなぁと思ってる。

ワクワクすることや興味のあることが出てきたら、自分の気持ちを大事にして次々と乗り換えていくというのは、別に悪いことじゃない。
それどころか、飽きることで自分の可能性が広がっていくんだと思う。


僕は、飽きることは挑戦と成長の証だと思ってる。

 

例えば、僕は去年「苔テラリウム」にハマっていたんだけど、そもそもそういうことにチャレンジしたということ自体が素晴らしいことだと思うんだよね。(自分で言うのもアレだけど。笑)

だって、普通の人は興味を持たないようなことにワクワクして、しかもそのワクワクを行動に移して実際にやってみたんだから。

やっていたのは1年間くらいだけど、その期間はコケの生態について知るためにいろんな本を読んで、いろんな種類のコケを採取・収集して、実際にいくつも苔テラリウムのボトルをつくった。
失敗してカビが生えてダメになったものもたくさんあるけど、いまだに鮮やかな緑色で目を楽しませてくれているものもある。

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僕はもともと盆栽をやっていたので植物については詳しいつもりだったけど、コケならではのこともたくさんあって、植物についての見識をさらに深めることができた。
盆栽とは違って、植物をガラス瓶の中でデザインすることの難しさや面白さも知った。
コケというあまり重要視されない植物に視点を向けることで気づくことはたくさんあった。

つまり僕は、コケを通して成長することができたんだよね。
そして、コケを通して成長できることが終わったから、たぶん僕は飽きちゃったわけだ。

 

そう考えると、飽きるというのは僕にとって必要なプロセスであって、飽きないようにする必要はないし、飽きたのにそこに踏みとどまってずっと続ける必要もないと思うの。

飽きたらまた次にワクワクすることを追いかければいい。

次のワクワクも植物に関することかもしれないし、全く別のことかもしれない。

将来また苔テラリウムにワクワクすれば、また戻ってくることもあるかもしれない。

実際、僕は長年放置していたこのブログをまた書き始めたわけだし。


いずれにしてもその都度別のワクワクを追いかけていけば、また新たな気づきがあって、自分自身を成長させられるはずなんだ。

小さな子どもなんて、まさにそれだよね。
子どもたちは夢中になって何かで遊んでいたかと思うと、いつの間にかそれを放り出して別のことに熱中している。
で、それを繰り返して成長していく。


「長続きしない」「飽きっぽい」というと世間ではダメな人のように思われることがあるけど、僕はそうは思わない。
「一度やり始めたことは最後までやり通さなければいけない」「中途半端なことをすべきではない」というのは、誰かをコントロールするために社会が決めた価値観だと思ってる。


生まれながらにして自由であるはずの僕らは、そんなルールに従う義理はないし、飽きることにネガティブなイメージを持つ必要も全くない。

趣味のことだけでなく、それが恋愛であっても仕事であっても、飽きるたびに「ああ、自分はまた新たなことに挑戦して、そして成長したんだなぁ」って思えばいいんじゃないかな。


ということで、このブログの更新が突然止まったとしても、それは僕が成長した証なので、温かく見守ってくださいね。(笑)

全肯定 シンクロの呼吸・壱ノ型 無我!!

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釣りっぽいタイトルになっちゃってごめんなさい。
鬼滅の刃とはまったく関係ない話です。(笑)


今日は、「シンクロに任せる」ということについて書こうと思う。

シンクロニシティという言葉は結構一般的になってきてると思うけど、調べてみるとこんな感じで説明されている。

シンクロニシティー【synchronicity】

虫の知らせのような、意味のある偶然の一致。心理学者ユングが提唱した概念。共時性。同時性。同時発生。


(「デジタル大辞泉」より)

 
つまり、論理的には説明できないけれど偶然起きた意味ある出来事のこと。

例えば、ある人のことを思い浮かべていたら突然その人から電話がかかってきたり、何か欲しいもののことを考えていたら、たまたまそれに関する有益な情報が飛び込んできたりといったようなことで、経験したことのある人は多いと思う。

 

ただ、このシンクロニシティという言葉は、同じようなシーンで使われるセレンディピティとはちょっと違っている。

セレンディピティも似たような意味なんだけど、セレンディピティの場合は偶然に起きることが「幸運」とか「ポジティブ」なことに限定されるのに対して、シンクロにシティのほうには「ネガティブ」なことも含まれる。

例えば、普段は気にならないのにふと思い浮かべた知人の家族から突然連絡があって、その知人が亡くなったことを知らされるとか、なぜだかわからないけど嫌な予感がするな…と思っていたら事故に遭ったり、といったことはシンクロニシティだけど、これをセレンディピティとは言わない。

 

と、前置きはこのくらいにして。


何かに取り組んでいるとき、あるいは何かに取り組もうとしているときに、思いがけないトラブルなんかが発生してスムーズに進まないことってあるよね。

どうしてこうなっちゃうの?とか、なんでこんなことになっちゃったんだろうとか、うまくいかないこと。

 

例えば僕は先日このブログで、僕が考える「神」についての考察を2時間以上かけて書いて、下書きに保存したの。

それなのに、その1時間後ぐらいに下書きを開いたら、なぜかすべて消えてしまってて、大ショックを受けたんだよね。

 「いや、それ、保存し忘れただけじゃない?」って言いたいのはわかりますよ、うん。
でも、僕は確実に保存した! 誰が何と言おうと保存しました!(笑)
まあ、そこはグッと堪えて、保存したのに消えちゃった、ということにしといてください。(笑)


で、そうなると、当然ながらショックを受けることになる。
えーっ!2時間以上かけて書いた大作だったのに…消えちゃったよ…。何で?!って。

ただ、大事なのは、それをどう受けとめて、そこからどうするかっていうことだと思うんだよね。

で、おそらく進む道はそこで大きく2つに分かれる。

 

①もう一度書き直す
「さっき書いたのは消えてしまったけど、気合を入れて書き直して、さっきのよりもっと良い記事を書こう」と考えて、現実に立ち向かう。

②受け入れてあきらめる
「消えてしまったということは、今はあの記事をアップする時ではないという天の声かもしれない」と考えて、その現実を受け入れる。


行く手を阻むものが現れたときにどんなふうに行動するかというのは、人によって違うし、時と場合によっても異なるんだろうけど、僕は最近、とりあえず流れに乗ってみることにしてる。

つまり、起きた出来事をいったんすべて肯定する

一見ネガティブに感じることであっても、これは自分にとって必要なこと、良いことが起きてるんだ、これでいいんだ、って受け入れてみるの。
そして、じゃあ、違うやり方でやってみようかな?とか、まったく別のことをやろうかな?とか、すぐに気持ちを切り替える。

 

というのも、僕たち人間には自我があるから、「これをやりたい!」とか「絶対これが欲しい!」といった思いは当然あるんだけど、それが自分にとって本当に良いことなのかどうか、実際のところはわからないんだよね。

それはほら、「人間万事塞翁が馬」という言葉もあるくらいだし。

塞翁(さいおう)が馬(うま)


人生の禍福は転々として予測できないことのたとえ。「人間万事塞翁が馬」

[補説] 昔、中国の北辺の塞 (とりで) のそばに住んでいた老人の馬が胡 (こ) の地に逃げたが、数か月後、胡の駿馬 (しゅんめ) を連れて帰ってきた。その老人の子がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かったという故事から。

 

(「デジタル大辞泉」より)

 

 だったら、起きたことはすべて肯定して受け入れて、あとは流れに乗って天に任せるというのも、一つの在り方として間違ってはいないと思うんだよね。


そういえばタレントのタモリさんが、彼の師匠である赤塚不二夫氏の葬儀で、白紙の弔辞を読むというギャグをかましてくれたことがあった。
で、その中でこんなことを言っている。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。

すなわち、『これでいいのだ』と。

 

youtu.be


この弔辞は大好きで、今でもたまに見るんだけど、すべてをあるがままに肯定的に受け入れるという赤塚不二夫氏の生き方(つまりバカボンのパパの生き方)には、とっても共感する。


壁にぶつかったら立ち向かって打ち破るというやり方もカッコいいと思うけど、偶然起きたトラブルをシンクロと捉えて肯定的に受けとめ、自我を捨てて流れに乗ってみるというやり方も悪くないと思う。

もちろん、それが正しいんだと主張するつもりはないよ。
ただ、僕は最近そんなふうにやっていて、これがなかなかうまくいってるんだよね。

スピリチュアルって何?

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このブログで僕は、スピリチュアルという言葉を頻繁に使っているけど、そもそもスピリチュアルって何なの?っていうことについて書いていなかったので、今日はそれについて思いつくままに書いてみたい。

 

スピリチュアルという言葉の意味を調べると、もともとキリスト教用語で、神、聖霊、魂、精神、超自然、神聖など、いってみれば「霊的」であることを意味しているらしい。

ただ、今の日本でスピリチュアルと聞くと、「オーラ」「心霊現象」「霊能者」「占い」「運命鑑定」「前世」「チャネリング」とか、いかにも怪しげなワードを思い浮かべる人が多いと思う。

僕も実際そうだったし。(笑)


でも、本来の意味からすれば、スピリチュアルというのは目に見えない世界のこと、主に精神世界のことを表している。

だから当然、スピリチュアルというと真っ先に「宗教」が上がってくるし、それだけでなく、運とか偶然、雰囲気、気持ち、感情といった、目に見えないけれど誰もが意識していることも当然スピリチュアルということになる。

目に見えないという意味では、記憶や心、時間だってそうだ。
人間の記憶がどのような仕組みで蓄積されたり引き出されたりしているのか、心とは何なのか、科学的にはまだ解明されていない。
時間についても、時間とは何なのかということすら科学的にわかっていない。
そもそも「時間など存在しない」という物理学者もいるくらいだからね。


僕らは普段何も意識せずに生活しているけど、実際のところ、僕らの目に見えている物質的な世界というのは、僕らを取り巻く広大な宇宙のごくごく一部の状態であって、本当は目に見えないもの、よくわかっていないことのほうが圧倒的に多いんだよね。


オーラとか心霊現象といった怪しげなことだけでなく、多くの人が「当然ある」と思っている時間とか心についてさえも、人間はまだわかっていない。

だから、「俺はスピリチュアルなんて信じないぜ。信じられるのは科学だけだ」という人であっても、実は目に見えないことや科学的に証明されていないことを信じて、それを前提に生きているわけだ。

スピリチュアルは信じなくても、初詣には必ず行くとか、勝負のときはゲンを担ぐとか、私は昔から運が悪くてさ… とか言っている人も少なくないよね。


おそらくほとんどの人は目に見えない世界のこと、科学的に解明されていないことであってもそれを前提にして暮らしているんだと思う。

ただ、その方向性とか程度の大きさによって、胡散臭いと感じたり、当然だと考えていたりするんじゃないかな。
そう考えると、実際のところほとんどの人はスピリチュアルに生きていて、違いがあるとすればそれを意識しているか否か、どこまで意識しているのか、という点だと思う。


ということで、僕にとってスピリチュアルというのは、「目に見えない世界」についてどれだけ意識的に生きているか、ということかな。

 

ところで、あなたは「神」や「仏」の存在を信じていますか?
信じている人は、自分自身がスピリチュアルな人間だと思っていますか?
信じていない人で神社やお寺にお参りに行く人は、なぜ行くんですか?

 

ちなみに僕は宗教を信じていないので、一般的な意味での「神」も「仏」も信じてないし、神社やお寺は「公園」だと思ってるんだけど、それについてはまた改めて書こうと思う。

なぜ感謝の気持ちが大事なのか?

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以前、感謝することは瞑想を超える最強のツールだよっていうことを書いたけど、今日は、「感謝」するという行為がなぜ良いのか、少し別の角度から見てみたい。

ちなみに、ここで言う「感謝」は、口先だけの感謝ではなくて、心の底からの感謝のことだよ。

 

スピリチュアルに詳しい人はご存知だと思うけど、スピリチュアルの世界では「感情が先で、現実は後」という考え方がある。

これは、自分が思考したことや感じたことが現実化する、という考え方のこと。

 普通は、何か現実があって、それに対して嬉しくなったり悲しくなったりといった感情が湧いてくるものだと考えるよね。

「現実が先で、感情は後」だと。

もちろんそれはそうなんだけど、じゃあ、その最初の現実はどうやって起きたのか?というと、スピリチュアルでは、自分が過去に感じたこと、つまり過去の感情が、その感情に応じた未来の現実を引き寄せてくるって考えるの。

 例えば、何か不幸なことが起きるとそれが連鎖するとか、嬉しいことが立て続けに起きるとか、そういうのはまさに、感情が新たな現実を呼んでくるというわかりやすい事例だね。

 

僕は長年マーケティングの仕事に携わってたので、いろいろ分析したり企画したりということをやってきたけど、アイデア出しのやり方の一つに、カラーバスという方法がある。

カラーは色、バスはお風呂=シャワー っていう意味だと思うので、直訳すると色のシャワーということになるのかな?

(ごめんなさい、これはテキトーな解釈です。笑)

 

で、このカラーバスってどういうものかというと、めちゃくちゃ簡単で、何でもいいのでまず一つ好きな色を決めるのね。

例えば「青」と決めたとすると、「今日は外出するときに青い色のものをできるだけたくさん見つけるぞ!」って意識するの。

そうすると、いつもと同じ道を歩いていても、今まで全く目に留まっていなかった青い色のものがたくさんあるのに気づくいて驚くことになる。

(よかったらぜひ一度やってみてね!)

 

つまり何が言いたいかというと、僕らの身の回りには自分が気づいていないことがいっぱいあって、普段はそれを意識せずに暮らしているんだよね。

それが、自分の意識が変わると周囲の世界がまったく変わって見えることになる、っていうこと。

 楽しい気分で過ごせば楽しいことが身の回りにたくさんあることに気づくし、怒ってばかりいると腹立たしいものばかりが目につくようになる。

 

ちなみに、スピリチュアルの考え方はこれとはちょっと違ってて、これを「波動」という概念で説明してる。

自分の波動を上げれば高い波動のもの(例えばポジティブな現実)が引き寄せられてくるし、波動を下げれば波動の低いもの(例えばネガティブな現実)が引き寄せられてくる、というふうに説明されることが多い。

 いずれにしても、自分の感情や気持ち(意識をフォーカスしていること)に応じた現実が引き寄せられてくるということには違いないと思う。

 

ようやくここで今日のテーマである「感謝」ということに話を戻すけど、心の底からの感謝をしているとき、「有り難い」という気持ちが全身を包み込むような状態になる。

他の人からみたら、「どうしてそんなことに感謝できるの?」と思うようなこと(例えば空気や水、コンビニで手軽に買える食べ物、健康であることなどなど…)であっても、それに対して心から感謝しているとき、その人は満たされた気持ちになっていると思う。

少なくとも僕の場合はそうだ。

子どもたちが元気で楽しそうにしてるのを見てるだけで、本当に有り難くて満たされた気持ちになる。

そして、これこそが大事だと思うんだよね。

 

「感情が先、現実は後」だとすると、満たされた気持ちでいれば、また別の満たされるような現実が起きてくる

「偽りのない心の底からの感謝の気持ちで満たされ」ていれば、一定のタイムラグを経た後で、「偽りのない心の底からの感謝の気持ちで満たされ」る現実があわられてくることになる。

 

僕ら日本人は、どんなに不幸を感じている人であっても、世界の中では比較的恵まれた環境にあると思う。

水道をひねるだけで出てくる飲み水ひとつとってもそうだし、飢えて骨と皮だけになってるのにお腹だけがパンパンに膨れた子どもを見かけることもない。

 たから、気づくことさえできれば、感謝の対象はそこらじゅうにあるはずなんだよね。

 

そして、それに気づいて、心の底からの感謝の気持ちを頻繁に感じることができれば、すぐにとは言わないけれど、同じように感謝したくなる現実があなたの前にあらわれてきます。

 

信じるか信じないかは・・・

 

あなた次第ですっ! ド━━  m9(゚Д゚) ━━ン!

(笑)

こだわればこだわるほど 幸せは逃げていく。

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最近は「こだわり」という言葉が、どちらかというとポジティブな意味で使われることが多いと思う。
でも、「こだわる」という言葉はもともとネガティブな意味合いのほうが強かったんだよね。

 

1 ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる。拘泥する。
2 物事に妥協せず、とことん追求する。
3 つかえたりひっかかったりする。
4 難癖をつける。けちをつける。


(「デジタル大辞泉」より)


こだわりの食材、こだわりのアイテム、こだわりのお宿…。
広告表現でもよく見かけるよね。

あと、「俺は〇〇にはこだわりがあってさぁ」みたいな感じで使われることも多い。
仕事で使う文具類にはこだわってるとか、お酒にはこだわりがあるとか、ファッションにこだわりのない人なんて信じらんなーいとか。インターネット上の情報を見てると、フロスの選択から住宅選びまで「こだわってる」人ばかり。(笑)

 

かく言う僕もビールにはこだわりがあって、発泡酒や第三のビールは好きじゃないのでほぼ飲まない。
友人・知人との飲み会の席では仕方なく飲むこともあるけど、自宅で発泡酒を飲むことはないんだよね。
なぜならビールが大好きで、その味に「こだわってる」から。(笑)

 

でもこれって、果たして幸せなことなんだろうか?

 

ビールが好きで味にこだわってるから「これしか飲まない」という人と、ビールだろうと発泡酒だろうと「どちらも大好き!」という人がいた場合、おそらく後者のほうが幸福度が高いと思う。

だって前者の場合は、仕方なく発泡酒や第三のビールを飲まざるを得ないときは幸福感を味わうことができないけど、後者の人はどんなシーンでも幸福になれるわけだから。

一方で、何かにものすごくこだわっている職人がつくったものを手にしたり口にしたりすると、その出来栄えに感激することは少なくない。
ただ、それをつくっている当の職人さんのほうは、もしかしたらあまり幸せではないのかもしれない。
「この程度じゃダメだ」「まだまだ上があるはず」と、常に自己を否定し、現状を否定しながらモノづくりをしてるはずなので。


だから、強すぎる「こだわり」は、本人にとってあまり良くないことだと僕は思う。
仏教的には「こだわり=執着」であって、できるだけ執着を手放すように言われているのも、そういうことなんだろうな。


「お酒の中ではビールが好き!」ぐらいだったらいいと思うけど、「発泡酒はビールじゃない!」「ビールはラガーに決まってる!」「ラガーの中でもこの銘柄じゃなきゃダメ!」「缶入りのビールは金属臭があるからイヤ!」「ホップはこの品種じゃなきゃダメ!」「ビールの温度は5℃~7℃の間しか認めない!」「グラスはこれじゃなきゃ飲まないよ!」みたいに、こだわればこだわるほど、それが叶えられない環境下では幸福感を感じられなくなってしまう。


何事もほどほどに、適度に、バランスが大事なんだろうなぁ。
ということで、こだわればこだわるほど幸せは逃げていく、という話でした。

「苦手」を分解してみる。

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先日、校区のドッヂボール大会があった。

うちの子どもたちは3人とも小学生なんだけど、真ん中の小3の女の子はスポーツが苦手で、去年も一昨年も、ドッヂボール大会の前になると憂鬱な雰囲気を漂わせて、やる気がまったくなかった。

 それが今年は、去年までのあの態度は一体何だったんだ?というくらいに張り切ってて、実質的なチームのキャプテンになってしまっていたので、思わず笑ってしまった。

 

 どうやら今年は、練習のときに上手な男の子が投げたボールを偶然キャッチできて、それが自信に繋がったらしい。

もともとリーダーシップのとれる子なので、自信が持てるようになるとあっという間にリーダーになっちゃうという面白いプロセスを見せてもらった。

 

そんな次女の活躍を見ていて改めて気づいたのが、苦手なことを分解してみると苦手じゃなくなるかもしれないということなんだよね。

 

ドッヂボールが苦手な子は、ドッヂボールの何が苦手なのかまでは考えていなくて、とにかく「ドッヂボールが苦手!」「だからドッヂボールが嫌い!」って思ってる。

 

でも、ドッヂボールみたいな一見単純に見えるスポーツでも、ボールを投げる、キャッチする、拾う、パスする、避ける、逃げる、作戦を考える、声を出して鼓舞する…といったように、その構成要素は幾つもあるんだよね。

 

ちなみに件のうちの次女は、ボールを投げること以外はどれも苦手じゃなかったんだけど、「ドッヂボール = ボールを投げる」「ドッヂボール = 当たると痛い」という単純な図式の中にいたので、「とにかくドッヂボールが嫌い!」な状態だったわけ。

でも、プレイの中身を分解してみるといろいろな要素があって、その中には自分の得意なことを発揮できる面もあったんだよね。

 もちろん、うちの子本人がドッヂボールの要素を分解してそうなったんじゃなくて、たまたま結果的にそこに至ったわけだけれど。

 

で、これは当然ながら子供に限った話ではないと思うんだよね。

僕らも、何か苦手なことや嫌なこと、嫌いな人がいたとして、それを丸ごと一括りにして「苦手!」とか「嫌!」と思って終わりにしてることが結構あると思う。

でも時にはそれをせずに、いったん要素に分解してみるといいかもしれない。

そうすると、「これは苦手だけどあれは大丈夫」とか「こっちは嫌いだけど、あれはまあ許せるか」という感じで、見方が変わるかもしれない

見方が変わると当然ながら関係性が変わるから、自分の周囲の環境が変わっていくことになる。

そして、周囲の環境が変われば人生が変わり始めることになる。

 

人間って面白いね。

旗幟鮮明にすることは相手への思いやり。

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旗幟鮮明(きしせんめい)という言葉がある。

「旗幟」は「旗(はた)と幟(のぼり)のこと」で、「旗幟鮮明」は、「はたじるしがあざやかではっきりしていること。転じて、態度・主義・主張などがはっきりしていること」(『広辞苑』岩波書店)

 

逆に「出る杭は打たれる」ということわざもあるように、日本では自分の意思や想いをはっきり主張することを良しとしない風潮もあるから、本心を隠しながら生きてる人も多いと思う。

 

 僕自身は、以前「宇宙人ごっこのススメ」でも書いたように子どもの頃から自分の意見をはっきり言うほうだったから、周囲の人たちとの摩擦や軋轢は常にあった。

でもその代わりに、そんな僕のことを気に入ってくれる人や高く評価してくれる人もいて、そういう人とは普通以上に良好な人間関係を築けることも多い。

 

自分の意見をはっきり主張せずに、オブラートに包んで話をする人は、おそらく心優しい人が多くて、相手との人間関係をできるだけ壊さないようにしてるんだと思う。

日本人らしい、いわゆる「和」を重視するスタンスだよね。

僕もそれはとても大事なことだと思う。

 

だから本当は、自分の考えをはっきりと主張しながらも相手との関係性を大事にするような、アサーティブなコミュニケーションができると一番いいんだろうと思う。

ただ、僕はそういう高度なコミュニケーションがなかなかできずに、自分の主張によって相手との関係が壊れてしまうことも多かったような気がする。

 

だけど、それは必ずしもお互いにとって悪いことではないと思うんだよね。

だって、僕が自分の意見をはっきり言うことで、「この人とは合わないな」と相手が思うなら、僕から離れていけばいいだけだから。

逆に、もし僕が自分の言いたいことを我慢して、相手やその場の雰囲気に合わせて立場をハッキリさせなかったとしたら、相手は僕が何を考えている人なのかわからないままになってしまう

というか、むしろ逆に僕のことを、自分と同じような考え方を持った人間だと勘違いしまう可能性が高い。

 そうなると、その相手は、本当の僕ではない人と付き合い続けることになるわけだよね。

もし僕が自分の正直な気持ちを表に出していたら、その相手は「ああ、この人とは合わないから付き合うのはやめよう」とか、「あまり深い関係にはならないようにしよう」といった判断もできたはずなのに、僕が相手に判断材料を与えなかったために、正体不明の僕との繋がりを維持し続けなきゃならないことになる。

これはお互いにとって、とっても不幸なことだと思う。

 

だから、自分自身のためにも相手のためにも、自分の意見や想いはしっかり表に出したほうがいいと思うんだよね。

旗幟鮮明にすることは相手への思いやりでもあると思う。

 

当然、はっきりと自己主張することで離れていく人はいるだろうけど、逆に、掲げた旗に共感して歩み寄ってきてくれる人も必ずいるから、そういう人とは深い関係性を築けることになる。

たくさんの中途半端な人間関係よりも、本音で付き合える深い人間関係が少しでもあったほうが人生は充実すると僕は思ってる。

 

だからこれからも、できるだけ相手を傷つけないようにしながらも、しっかりと自分の想いは表現するようにしたい。

 自分のためだけでなく、自分とどんな関係性を結ぶかの判断材料を相手に与えるためにも、自分の意見や想いはしっかり伝えるようにしたい

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